制度分析の技法論

本当に必要な制度分析を行なっても、それはほぼ間違いなく、制度的理由をもちだして拒絶される(「それをやると○○さんが解雇される」「○○さんが忙しいので」etc.)。


それまで制度分析の必要を語っていた人たちも、いざ自分の主観的惑溺を分析されると、強い抵抗(Widerstand*1でそれを遮り、むしろそのような「分析」を提示していることが防衛機制なのだ、分析が必要なのはあなたの方だ、と主張し始める。論争はこうして水かけ論になりがちだ。


そもそも制度分析は、「プロセス中心主義」というのだから、分析内容が外部性を拒絶しており、その都度の「プロセス独裁」だけが主張される。主観的惑溺に対する外部性はまったくない。周囲はこのプロセスに利用される下僕であり、意見対立が生じれば、旧態依然の役割関係がそのまま復活する*2
権力者が自分の気まぐれを受け入れさせるためのアリバイが制度分析である――そういう実態もあるのだ。


それゆえ、介入と外部性の手続きとなるような、制度分析の技法が要る。またその技法をめぐる論争は、技法そのもののパフォーマティブな試行錯誤にならざるを得ない。 「揉め事は自分のせいではない」と居直ることもできないし、プロセス中心主義を口実に独りよがりを押しつけることもできない*3


精神分析であれば、「分析家/相談者」という権力関係が明示的に設定されるため、その関係性を分析する口実も生まれる。しかし制度分析では、建前上はお互いが同権とされるから、もともと強い立場にある側が示す抵抗にどう対処するかは、議論されにくい(そういう問題意識じたいが許されない)。


「お互いの分析は同権で出会う」ことが「transversalité」などと呼ばれてメタなアリバイになれば、自分が生きてしまう権力にそれとして直面することすらなくなる。 「分析同士が出会うんだ!」とナルシスティックにイデオロギーを確認し、鼻息を荒げて終わるのだ。


そもそも分析は転移関係が前提だから、相手や場への興味を失った時点で、その分析関係は終わっている。 魅惑的だった人や関係はゴミ*4になり、分析が自律化する極めて生産的な時間がやってくる*5。 そしてこの時間が、また次の転移接続を準備する。

    • ここでは「制度分析 analyse institutionnelle」と記したが、同じ疑問は「分裂分析 schizo-analyse」にも向けられる。 分裂分析には、技法論と呼び得る議論フィールドはあるだろうか*6。 単に「分析せよ」の呼び声でしかないなら、分析趣旨をイデオロギーとしてぶち上げたにすぎない。


*1:制度的に持ち出された「拒絶の理由」それ自体が抵抗になっている。 『ラカン派精神分析入門―理論と技法』p.28〜、「何事も額面どおり取ってはいけない」などを参照。

*2:「ひきこもりのくせに」といった発言も飛び出すわけだ。

*3:言葉を替えればこれは、恋人同士のような親密圏でしか制度分析の共有はあり得ず、それは分析というよりも、独りよがりを共有しあって悦に入る「ナルシシズムの持ち合い」ではないのか、という疑念だ。 親密圏を破壊するような分析は拒絶され、一方的要求が分析の名のもとに押し付けられる。 「これは正しい活動だ」という思い込みへの籠絡しかないので、反論のすべては感情論で迎えられる(技法意識はない)。 ありていに言ってこれは、単にDVでしかない。 《制度分析》を口実にし、公開することを禁じられた関係性が、DVの温床になるのだ。 この状態を改善するには、やはり制度分析は、ライフログアーカイブ化(アクセスしようと思えばいつでも関係実態を素材化できる)を前提にしなければならない。制度分析という合言葉を口にすることは、制度分析の遂行を何も保証しない。

*4:ラカンで言えば《対象a

*5:イマジネールな籠絡から解放され、本当に忌憚なく関係性が分析される。

*6:制度分析そのものを「技法」と呼ぶ議論はあっても、「制度分析という活動を維持するための技法論」が見当たらない。そして考えてみれば、いつの間にか選んでいる技法こそが思想なのだ。 技法意識がないなら、それは独りよがりの思い込みを「聞いてくれ!」と叫んでいるにすぎない。