私たちの意識は、その都度プロセスとして営まれている*1。
そのプロセスは、硬直して一定のスタイルを続けている(気づかれていないが)。
制度分析は、メタ・コンテンツの正しさに屈服させるのではなく、プロセスの態勢を変える臨床運動といえる*2。 それは、個人レベルの臨床であると同時に、「ベタな制度順応だけが蔓延しては、大変なことになる」という、巨視的な問題意識でもある*3。 とはいえ妄想的思い込みは、放置すれば改善されない。 つまり制度分析そのものが、パターナリズムと無縁ではない。
意識のスタイルそのものの歪みを問うているから、最初はそれ自体が洗脳のように思えてしまう*4。 私たちは恒常的に洗脳された状態にあるので、それを検証する思考や組み直しの勧めは、「納得できない教義への屈従」に思えてしまう(現在の思い込みの絶対化)*5。
宗教的な説教は、「あなたには真実は見えていないが、私には見えている」という形をとる*6。 しかし、私たちの意識はそれ自体が「勘違い」として形成されるのであり*7、ある時点でメタ認識をインストールすれば洗脳が解消できるのではない。 脱洗脳は、恒常的で解消不可能の労働課題だ。
自分の実情を分析することは、妄想的な思い込みを諦めることでもあるから、よほど内発的な納得がなければ、許しがたい強制と受け取られる*8。 ここで、脱洗脳がパターナリズムに重なる。
ふつうのパターナリズムでは、命令する側はメタに鎮座しているが、制度分析では、ベタな関係性に知性ごとに降りてきて、たいへん傷つきやすい状態で情念の塊になることがある;「なんで、ご自分を当事者化してくれないんだ!」。 そう叫びながら、ズタズタになる。――この人をいたわるには、言うことを聞いてあげなければいけなくなる。
これでは、分析運動を広めようとする人の《思い込み》の道具になってしまう。 いわば、脱洗脳の運動が、それ自体として自閉してしまう(万人の妄想にもみくちゃにされて)。
本当に必要なのは、脱洗脳の動きが恒常的に社会に根付くことであって、短期的に自分が誰かの道具になったり*9、戦術もなしに現場に飛び込んで「とにかく制度分析する」ことではない*10。
制度分析の呼びかけとは、硬直した思い込みに居直らず、当事者性を引き受けるような分析プロセスに身を投じようということだろうが、今のところ精神分析にあるような技法論を欠いているため、呼びかけ自体が、破滅的なルサンチマンに終わりかねない。
*1:実存は、パチンコ玉のような実体というよりも、その都度そのつど、「形成プロセス」として生きられるしかない。
*2:ラカン的な精神分析であれば、メタ・コンテンツへの信奉(「教え」)を広げるかたちになる。 党派形成のハードルは、「フロイト的なモノ(la chose freudienne)」への欲望を共有できるか否か。 スタティックな「教え」は、面接室内の技法構造とともに、それ自体が硬直した制度を形成する。
*3:私たちは、お互いがお互いにとっての《環境》でもあるから、これは「自分を含んだ環境」の改善運動でもある。 社会参加臨床は、「すでに自覚症状がある人」だけを楽にするわけではない。 ▼とはいえ、「思い込みの維持」は、動機づけの維持でもある。
*4:脱洗脳のプロセスは、本人側から見れば「異教徒による侵略」みたいなものだろう
*5:私たちの日常意識は、メタ教義を絶対化しているというより、意識を編み直す「再生産のスタイル」を絶対化している。 「私は、こういう形でしか自分を生きることができない」という思い込み。
*6:このパターンをとるかぎり、右翼も左翼も、伝統も新興も同じこと。 俗流若者論への批判やフェミニズムも、硬直したメタ正義に居直るかぎり、宗教的なパターナリズムになってしまう。 ▼パターナリズムについては様々な分類がなされているが、《スタティックなメタ正義 vs プロセスの中心化》という切り口で、議論じたいを構成し直す必要を感じている。
*7:ラカンが「人格とはパラノイアだ」というのは、このあたりの事情であるはず。――ラカンが解消しようとしている「思い込み」のスタイルは、制度分析とは違っているが、まさに「解消しようとする思い込みの違い」こそが、思想の違いなのだろう。
*8:そこで必要な納得は、単に知的ではなく、身体的なものだ。 自分を、時計的な時間軸から引きはがすような分析衝動のない人にとっては、「不当な分断化」や「わけの分からない話」と取られるだろう。
*9:至近距離での個人ケアは、「相手の妄想に同意し、こちらの妄想に包摂する」という要素をふくむ。
*10:それでは、まるで神風特別攻撃隊だ。 やみくもな自己投棄(自己の道具化)に、倫理的 purity をみるナルシシズム。