社会参加臨床 メモ

  • カテゴリー当事者ではなくて、プロセス当事者をしなければならない。
  • カテゴリー当事者という方法は、人権運動や女性運動で取り組まれてきた。 しかしそれだけでは、そもそもカテゴリーで人を分けることそのものの弊害を論じられない*1。 カテゴリーではなく、分析プロセスが、権利を主張しなければならない。(とはいえ、そんな法概念があり得るだろうか)
  • 人や作品について、「ハイカルチャーか、サブカルチャーか」 「マジョリティか、マイノリティか」 「強者か、弱者か」etc... という分類は、それ自体がイデオロギーになってしまう。 大事な分類は、「自分の生きている関係性を素材化できているか」――そこにしかない*2
  • 外部から誰かや何かを論じるときにも、「加害/被害」を、安易なカテゴリー化に落とし込まない。
  • 関係性の《素材化=プロセス化》は、実験動物のように「一方的に観察される」ことではない。 自分と他者とを同時に素材化し(その作業をこそコラボ的に共有し)、無私な分析の権限をゆるされること。 私にとって《公共性》は、このモーメントにある。
  • 公共的分析のプロセスとしてしか維持できない関係性――ここにしか、コミュニティの意義を見いだせない。 プロセスとしてしか維持されない党派。 結果的な内容というより、分析の《スタイル》が、事業のありかたを決め、党派の理由になる。 スタイルを共有できなければ、プロセスを共有できない。 ▼上野千鶴子的な、「自分のことは自分で決める」という自己同一性とのちがいを、ここで考えること。 呼びかけている分析作業の違いを、法哲学などの文脈で展開すべき。
  • カテゴリー的「当事者」に居直る人は、自分がプロセス化されることを拒否している。 スタティックな特権枠をゲットしたことで、その自分が(関係性を問い直すために)素材化されるのを拒否している。 それは正当化できない。――そのことを、「相手のプロセス化権を侵害している」といった言葉遣いで問題化できないか。
  • どのような立場や肩書に対しても、《居直り》を許さない。 しかしそれは同時に、確保したはずの時間や権利の不安定さにもなる。
  • 静態的な法概念ばかりが、私たちの現実を支配している。 そのことの弊害が計り知れない。
  • コミュニティを論じる人たちは、ご自分がどういうつながりを生きているのか、ほとんど対象化できていない。 分析や正義に没頭するご自分は、「いつの間にかうまくいっていた関係性」をベタに生き、そのスタイルを押し付けるだけだったりする。――少なくとも、《つながりの方法論》がナイーブ過ぎる。 それは、容易に暴力に転ずる。
  • 社会参加臨床は、さまざまな知見を参照しつつ、「それを論じている自分じしんが、社会参加の実務を生きている」ことを無視できない。 大きくは、そういう問題化で生きられる臨床運動といえる。
  • 「公的に標榜した規範を、ご自分がプライベートで裏切っている」人が多すぎる。 このダブルスタンダードを問題にしない限り、何を論じてもむなしい。 とはいっても、「襟を正せ」ではなく*3、関係性を検証する取り組みそのものを、社会に根付かせること。 私がいう《当事者化》とは、そういう運動だ。
  • 戦術論を欠いた《当事者化=プロセス化》は、精神主義的な特攻隊主義にすぎない。 「とにかく、制度分析が必要なんだよ!」ではダメ。 100年後ならそれで伝わる文脈があるかもしれないが、今はそういう準備すらできていない。
  • わかりやすい制度順応は、人や団体にというより、《つながりかた》に媚を売っている。


【付記】

今の時点では、意味が通じにくいと思います。すみません。
しかし、わかりやすく論じようとばかりしてしまうと、論文を毎回毎回ゼロから書き直すようなもので、何も書けなくなってしまうのです。仕事のフォーマットが決まっていて、あとはそれに合わせて新しいことを蓄積すればよい、というテーマではなくて、そもそもその論じようとする作業自体のフォーマットを組まなければならない、それをこそ主題化している(なぜなら、社会順応そのものが問題なのですから)。
社会参加を話題にしている人が、自分の社会順応を話題にできないという欺瞞に、何とか抵抗したいのですが、
それは「伝える努力をさぼっていい」(自分は社会順応努力をしなくていい)ということにはならない。しかしそれを言い出すと、シャレではなく過労になります*4
「これをすれば仕事になる」と張り切るのではなく*5、「何をすれば仕事をしたことになるか」そのものを考え直す。その再考察をしながら(その再考察こそを仕事のフォーマットとして措定しながら)、まずは自分が働いてみる。――とはいえそれは、既存の労働ルーチンを踏襲するわけではないので、全てが水泡に帰すかもしれない。
何が仕事で、何が仕事でないかを決める体制そのものが、壁として立ちはだかっているのです。



*1:差別が温存され、カテゴリー化そのものが孕む臨床的害悪を論じられない。

*2:分析プロセスの中心化において、セクシュアリティや出自など、それぞれの細かい事情が検証材料になる。 ここでいう「プロセスの中心化」は、事情の差異を無視するためではなく、むしろディテールを可能な限りていねいに検証するために要請されている。 差別的特権化は、人をカテゴリーに落とし込むことでディテールの検証をさぼっている。 問題のディテールをあつかう代わりに、カテゴリーを扱っている。

*3:それでは、形式的規範を押し付けなおしたにすぎない。 規範を押しつける側も、自分の足元を分析しないで済んでしまう。 そういうナイーブさの暴力をこそ問題にしているのだ。

*4:順応フォーマットを話題にしながら、順応努力そのものも続ける、というアクロバット・・・

*5:弱者擁護のイデオロギーを反復しているだけの幼児性は、それ自体が暴力です。