当事者論の貧困は、妄想的糾弾主義を生む。

カテゴリー当事者*1を擁護する人の間違いを指摘すると、自動的に「カテゴリーに敵対している」とされてしまう。 彼らは、「○○の味方」を標榜するだけで正義と思い込んでいるから、とにかく批判しただけで「○○の敵」にされてしまう。 「私たちは○○の味方をしている。その私たちに敵対したのだから、お前は○○の敵だ」*2

属性当事者ご自身がそのカテゴリーを擁護している場合*3には、ますますそうなってしまう。――私は、カテゴリーを攻撃したのではなくて、カテゴリーで人を切り分ける差別的な当事者論を批判したのだ。 差別的な当事者論は、たとえそれが属性当事者本人によってなされたものであっても、当事者的な分析責任を放棄している。


「弱者の味方さえしていれば正義でいられる」という全体主義の幼児性は、当事者論の貧困に基づく。



*1:「女性」「ひきこもり」「在日」「フリーター」など、弱者カテゴリーを形成するものなら何でもよい。

*2:参照:「レポート 『不登校は終わらない』

*3:「女性が女性を」「フリーターがフリーターを」など