大人とは、必要な仕事を自分で決められること。

「やりたいこと」「どうやったら愛されるか」ではなく。
難しいのは、それが自分には(人間には)できないとき。
射程圏内にある「必要なこと」を自分で見つけられれば。

「人生は、次の二つで出来ている。やりたいが、できない。できるが、やりたくない」(ゲーテ

同様にして、次のように言えるだろうか。 「やる必要があるが、やりたくない。やりたいが、やる必要はない」。
本当に「やる必要がある」と思ったら、それは「やりたい」と同じではないか?
「楽だ」と思えなくとも、必要だと本気で思えることは、「やりたい」ではないのか。

《必要》どうしのぶつかり合いに政治がある。

「欲望をあきらめるな」*1というラカンの格率は、欲望というより、「必要」と言うほうが良いように思う。
もんだいは、その「必要」がイデオロギー的に固定されていること*2
固定された《必要》のありかたを、変え続ける必要がある。



*1:「ne pas céder sur son désir」(参照

*2:イデオロギーとは、「必要」の制度的固定ではないだろうか。 それは単なる主観的思い込みではないし、自分だけが正しくなるわけにもいかない(前衛党意識のナルシシズム)。 唯物論的基盤をもった制度的思い込みが、具体的に組み直されるべき。