社会思想と臨床

社会的ひきこもりにおいては、
不正な意識しか持てずにいることと、臨床上の硬直が一致している。 誤った観念への固執だけでなく、権利主張できない弱さや、硬直した正義の標榜が、不正であり得る*1。 「何が正しいのか」のリアルタイムの判断は、とても政治的で、かつ臨床的だ。(政治的正しさは、臨床的風通しを必要としている)


「正しさ」をめぐる社会思想的な(法的・政治的な)去勢は、臨床上の改善とリンクする。 どうしても譲歩したくない紛争とその処理は、不可避的に去勢機会になる。 「君の言い分は通らない」


とはいえ、世の中は間違った宗教*2同士で戦争をしている。
⇒「なんで自分だけ正しい思想を持たねばならないのだ」


不正不当な意識は、世界中で本人や周囲を苦しめている(あらゆる紛争地域)
ひきこもりは、臨床上の硬直であると同時に紛争。 正しさを硬直させるという、皆が陥っているのと同じ誤りのスタイルで硬直し、紛争が生じている。


「そういう考えから抜け出すことができれば、お互いに別の苦しみ方ができるのに」
摂食障害・依存症・強迫性障害・対人恐怖・人格障害などのカテゴリー
形式的に、その枠組みの再生産から抜けられない
教義と集団による社会学的宗教とは別の意味での、宗教の紛争になっている。
現代の解釈は、それを「病気・障害」とすることで役割を付与する


社会のせいにすることまで含めて、特定の解釈枠に押し込むこと自体が宗教だが、それが関係を整備し、臨床像の改善をもたらすことがある*3
正義が硬直している場所では、分析による介入は犯罪的な不正と解釈されかねない*4。 固定的解釈に押し込むこととは別の、臨床行為としての分析機会(政治的な介入機会)が、制度や手続きとしてどう維持できるか。


宗教的没頭の「形式的禁止」は、それ自体が宗教のかたちをしつつ、固定的解釈を禁じている。 また、「宗教的=妄想的でありたくない」「本物の必然性がほしい」という倫理的模索は、それ自体が宗教的情念への嗜癖的没頭であり、周囲の状況を黙殺する暴力性であり得る*5
形式的禁止こそが、風通しのよい自由な分析の機会を開く。――このことには、権力や意思決定をめぐる制度上の問題と、臨床上の含蓄が同時に含まれている。


「社会参加をしているから、依存症ではない」ということではない。むしろそれは、役割意識への依存かもしれない。――万人それぞれの、正しさをめぐる依存症が、紛争をこじらせる。(「自分は正しい」と思い込みすぎる事とともに、「自分は間違っている」と思い込みすぎることも嗜癖化してくる。)
硬直した意識の臨床と、法的・政治的な紛争介入は、別々の事業ではない。



*1:ひきこもる意識は、往々にして「許せない!」という意識への固着だ。

*2:自分のことを宗教とは思っていない意識まで含めて

*3:人類学は、「未開の奇習はどう考えるか」だけでなく、自分の視点そのものを人類学的視点に晒さなければ、幼稚な話になる。 科学的視点は、それ自体が別の文脈では病理的硬直であり得る。 「○○の社会学」というタイトルの乱立は、傲慢な安易さに見える。 「論じている自分」のメタな居直りが、対象化されていない。 学問は、それ自体が偏りをもった順応だ。 「順応の成就」は、つねにどこかゆがんでいる。

*4:正当化しようとする視線どうしの、権力関係

*5:私は断酒開始から3年が過ぎたが、成功のカギは「形式的禁止」だ。 禁酒は、合理的理由によって一時的に呑まないことであり、断酒は一生、死ぬまで一滴も呑まないこと。 以前の私は、「断酒は宗教じゃないか」とバカにしていた。 ところが、形式的な断酒こそが自由をもたらした。 ▼この「形式的禁止」という着想を、私はスラヴォイ・ジジェクの社会思想上の著作から得ている(参照:『イデオロギーの崇高な対象』)。