社会性は、臨床的配慮に重なる

医療目線を問い直すイベントを中高生向けに企画していること、そしてレベルの高い話をなさった講師がまだ20代の精神科医であることが、すばらしい。 「こんなイベントを、医療目線におびえていた10代の自分が聴けていたら・・・」と思わずにいられない。

 わたしたちは、一般に、医師は「くもりのない眼で」「ありのままに」患者の病気を診ている、と思いがちです。しかし、松本先生によれば、そもそも「くもりのない眼」や「ありのまま」の対象のあらわれなんてありえないのだ、ということです。
 医師の「患者」へ迎えるまなざし、「治療」という観念、そして「患者」や家族の要望さえも、その時代や社会に特有な「構造」によってすでに規定されている、のです。そうすると、医学は「進歩してきた」のでなく、たんに医療従事者や「患者」や家族の疾病観・治療観を支配する「構造」が変わっただけである、と考えてもよいのかもしれません。

 インフォームド・コンセントという概念は、医師が患者に病名・治療効果・危険性を説明したうえで患者が治療に同意する、あるいは選択する手続きを意味しますが、もともとこれは、アメリカの訴訟社会を背景として、医師が責任を回避するための安全保障の機能を果たす一面をもっていたことは否定できません。しかし、松本先生は、それでいいのか、と告発します。
 むしろ、インフォームド・コンセントは、まったく反対に、医師と患者がある治療の可能性に自分を「賭ける」こと、生じうる「危険」を背負うこと、でなければならない、と松本先生はおっしゃるのです。



不登校や引きこもりについては、こういう議論こそ必要で、しかもそれは、「臨床効果」をもたらすために内在的に必要なのだ*2


臨床目線が一方にあって、それとは別に余興や副業として教養があるのではない*3おのれを対象化する豊かな言説は、それ自体が臨床実践となっている。それができないベタな治療目線は、「反臨床的」な害悪だ。(現状では、反臨床的な治療目線を相談者が内面化してしまう。)

松本氏が語るように、ほんらいは倫理的な賭けをともなう「臨床」が、賭けの契機をともなわない《物質科学=治療目線》に還元されている。 そうした「治療目線」が社会に遍在すると最悪だが、自分たちの状況を語り得る臨床目線が社会に遍在すれば、それはお互いの QOL を高めることになる*4


そもそも私たちは、医師免許もないのにお互いに接して、影響を与えあっている。
そこで必要な配慮を、「礼儀作法」ではなく、臨床活動として語るべきだろう(参照)。


《精神科臨床は、医師でなければ携わってはならない》と考える人は、医師免許をとるまでは人に接するのをやめるべきだ。 私たちは否応なく、日々「臨床」の責任を負わされている。 つねに、自己検証的なミーティングが必要だ。

    • フーコーデリダの名を出して、「逸脱者を歓待しなければならない」に終始する議論は、プロセスとして生きられる臨床的配慮をすっかり無視している*5。 主観性も集団も、おのれ自身がすでにある作法で生きているというのに*6。 マイノリティ受容という正当性を確保しただけなら、自己保身のアリバイ作りしかやっていない(それがマイノリティと名指された側に利用されもするだろう)。 昨今の知的言説は、メタ性確保のインテリごっこばかり。メタ言説が集団的な嗜癖対象となり、生を構造化している。
    • 物質科学的な目線は、医師だけが独占すべきものではない。ところが現状では、スタッフ側にも「由らしむべし、知らしむべからず」のヒエラルキーがある*7「スタッフが医療知識を持っている」ではなく、「権威的な医療知識がスタッフを使う」というシステムに見える。 一人ひとりのスタッフは、モノ的機能に還元される。


【追記】

「人と接する免許をもつまで、社会参加してはならない」というこの発想は、むしろ引きこもる人にありがちな強迫観念と言えるかもしれない。

自分のやることはすべてが逸脱的で、順応しようとすると意識が硬直して何もできなくなる――こういう感覚とひたすら戦わねばならない。トラブルは、順応努力の瞬間に生じている。

私が斎藤環氏の「掟の門」解釈に激しく抵抗したのは(参照)、まさにこの問題だ。 今の自分には参加する資格がない、ではどうやったら「門の向こう側」に入れてもらえるか――この発想こそが人を委縮させ、拘禁する。

資格ができるより前に、「すでに参加してしまっている、それを協働でなんとかしよう」の発想がなければ、いつまでたっても「始められない」、というかすでにもう始まっているはずなのに。
ところがこの発想を、「健常な社会人」は怖がるのだ*8。 彼らのアリバイに触れる素朴な分析こそが排除され、黙殺される。この話をしているかぎり、どうやら私はこの社会に入れてもらえない。



*1:via @schizoophrenie

*2:「スタッフにとって必要である」のみならず、こうした問題意識を悩む本人が内面化することに意味がある。

*3:逆にいうと、支援者が余興や副業として語ったつもりの発言には、臨床スタイルの誤りが表現されている。

*4:私たちは、お互いの人生にとっての環境要因となっている。

*5:マイノリティを名詞形に還元し、プロセスとして生きられる主観性や関係性を無視する。 「歓待」さえしていれば、実態は何も問われない(何があっても抑圧される)。

*6:誰であれ当事者性がすでにある

*7:医師の能力的現状をチェックする機会は終生なく、ソーシャルワーカーや看護師がステップアップできる機会はない。身分制的に役割と機能が分断されている。

*8:その「健常な社会人」には、さまざまなマイノリティや障碍当事者本人が含まれる。彼らの意識が、どうやって「正常さ」のアリバイを調達しているか。