芸術活動と医療行為

精神の運動失調」という拙エントリにある、

    • 患者さんの主観性や周囲との関係性、あるいは臨床の場が、固まってしまってはいけない

という指摘ついて、画家・永瀬恭一氏からコメントをいただきました。

@nagasek 無論「患者」を美術家・鑑賞者・批評家に代替可能。
@nagasek 更に「患者」を「カオスラウンジ」と置き換えてみよ。



《制度分析》は、フランスの精神医療の運動で「analyse institutionnelle」と呼ばれているものを参照し、日本の《当事者》概念と関わらせて考えてきたものです。
カオスラウンジという活動が制度分析を引き起こしている*1、というご指摘を詳細に検討することは、今の私の手には余ります。 しかし、《芸術とは制度論的な活動それ自体だ》と考えると、別の切り口が見えてきます。 芸術というと、耽溺の対象を生産することに思えるが、そうではないのだ、と。


以前、対談企画を連続して聴きにいって、次のように思いついたことがあります(参照)。

止まっているものを《動かす》ことが、芸術と臨床の仕事だ

ふつう医療は、「異常なものを正常に戻すこと」と思われていますが、
動かすことが仕事だと考えれば、医療の活動が、騒動を巻き起こすアーティストの活動に重なって見えてきます*2


身体医学では物質組織だけを考えますが、精神医学ではそうはいきません*3。 この場合、《動かそう》という意図も保証にはならず、転移が起きなければ仕事にならない*4


芸術が、《権利》への侵害と再定義の要因をふくむ――それゆえ紛争が避けられない――のと同様に、医療とはつねに権利侵害であり(侵襲性)、医療の進歩は、権利問題と隣り合わせです*5。 ある意図をもってやったことが、犯罪になりかねない。


逆にいうと、医療行為はスタティックな安心感を目指すため、つねに官僚化の傾向をもちますが、それは臨床上の効果をつぶすことでもあり得ます。



*1:カオスラウンジそれ自体というより、そこに巻き込まれた人たちが否応なく自分でやらざるを得なくなっている分析こそが制度分析だと考えれば、芸術活動を《当事者性に目覚めさせること》と考えることにもつながります。 そして「人を当事者にすること」は、不法行為や犯罪にも重なる。

*2:ある効果を目指したからといって、うまくいくとは限らないことも含め

*3:にもかかわらず現状では、精神の失調を「脳髄という臓器の失調」に還元する立場(生物学的精神医学)が支配的です。

*4:しかもその転移は、「医師/患者」間だけでなく、環境全体にわたる断片的かつ総合的な視点を必要とします。

*5:たとえば延命治療や安楽死は、技術的な進歩なしにはあり得ません。また精神科医療では、「ご本人の意思」や責任能力がつねに問題となります。