参加パターンの固着としての「ひきこもり」

社会にうまく参加できない人を話題にすることが、誰にとって都合がいいか。

    • 逸脱者を利用して業績を挙げようとする人か。
    • 社会批判のイデオロギーを喧伝するのにいいかもしれない。(「資本主義は間違っていた!」)
    • 「対策を講じました」というノルマ達成のため。(原理的考察はなされない。雰囲気で「うん、これは対策講じてるよね」と世論が納得してくれればいい)
    • 「患者さんのために」という言い分は、医師が明確なポジション取りをするのに好都合。いっけん正しく見える優雅な言説は、医師の保身になっている。(患者として振る舞うことに利得があると踏む人はそれを利用するだろう。)*1



これから、どういう方向で元気になってゆくか。単に《復興》――もとの路線に戻ること――でしかないのか。 今回は原発の問題もあり、それが強く問われている。

私の社会参加は、どう設計されるべきだろう。 一人で参加を設計することができない以上、これは集団的な課題になる*2。 自分のつごうで古い方針に固着する人は、周囲をそこに巻き込む。


「がんばろう!」と言うとき、方針にかんする重要な選択は終わっている。だからその手前に戻りたいが、「本当に正しい方針」は、いつまでたっても見つからない。 選択を終えてから踏み出すのでなく、参加方針を常にチェックする態勢をこそ共有できないだろうか


あなたの固着した参加は、誰かをその態勢のもとに監禁している。
厚労省のいう意味で引きこもり状態にある人は、自分の家族を、「おのれを扶養させること」に監禁している*3。 そこから考えれば、問題の核心は、閉じこもっているかどうかではなく、参加パターンが固着していることにあると分かる。つまり、「パターンの固着した主観性と参加様態」が、ひきこもりの定義と言える。
そのとき、厚労省的ニュアンスで「ひきこもる人」だけを問題化してしまうと、問題のすべてが個人化される。ひきこもる本人と周囲が維持するその目線こそが問題をこじらせる*4
こうした状況の全体が、問題に取り組んでいるように見えて、実は問題を悪化させている。 いわば「ひきこもった状態」が、集団的に維持される*5


参加パターンの形式的維持と改編を、直接話題にしなければ*6。 それを拒否する人は、おのれの固着したパターンに引きこもりたがっている(たとえ「ひきこもりの支援者」であっても)。
自覚できないままの参加パターンが硬直すれば、それは厚労省の定義とは関係なく、「ひきこもり」になっている。この意味で、原理的に抽出された《ひきこもり》が、トラブルの元凶として名指せる。(いわば各人が、「ひきこもり機械」の部品になっている。)*7



*1:医師と患者の間に、医療言説をめぐる共依存関係がある。これは、患者をカテゴリー化して業績を作りたがる学者たちにも好都合であり、さまざまな役割ポジション間に共依存がある。この「持ちつ持たれつ」の嗜癖的関係に気づかねばならない。(一部の社会学者が医療言説にべったりなのは偶然ではない)

*2:「とにかく参加しよう」は、集団的な自殺行為かもしれない。

*3:同様に、意義を失ったシステムで生活費を得ている人は、自分を扶養させるために関係者を監禁している。

*4:主観性の集団的配置それ自体が固着していることが気付かれていない。

*5:わかりやすい「ひきこもり支援」は、それ自体が引きこもりの繭であり得る。

*6:予算と法の改編・策定を本義とする「政治」は、これをやっている。つまり私はここで、個人の主観性と関係性について、政治制度を根付かせようとしている。

*7:ここでいう「機械」は、ドゥルーズ/グァタリを参照している。 cf.小泉義之機械とジル・ドゥルーズ