参加の当事者であること

  • 医師・学者・知識人の言説は、自分の私的関係性を論じる能力を持たない。彼らの言説は、むしろそれを隠蔽することでようやく成り立つような体質を持っている。
    • ひきこもりでは、至近距離の関係こそが鬼門だから*1、現状では、ひきこもりを原理的に論じられる人がいない。
    • 逆に言うとこの観点から、今後の専門職の養成を考えなければならない。


  • 私が自分で試み、支持を求めるべきなのは《当事者的な分析》であって、「ひきこもり当事者であること」ではない*2。 ひきこもりはむしろ、集団的な当事者的分析ができずにいる状況の症候的帰結と言える。
    • この意味での当事者概念は、ラカン派が「患者」を《分析主体》と呼び直したことの発展形と理解できる。集団的に反復される関係パターンのさなかで、言葉がどんな方針をもつか。箱庭内の概念遊びで、自分のアリバイ作りだけに励むのか。



フェリックス・グァタリには、当事者分析的な趣旨があったように見える。
ところが、それを生きようとした後続論者が見当たらない。

 先ほど、ひとりの仲間が、マルクス主義フロイト主義の関係についての一連の研究が結局のところきわめて教条的な側面を持っていると指摘したが、私も同感である。この袋小路からぬけだすには、闘争の現実、しかも実際におこなわれている闘争の現実について、あらいざらいぶちまけることから出発するしかないだろうと私は思う。 (略)
 彼は自分の労働単位のなかで、あるいは彼の家族的取り巻きのなかで、どんな政治をおこなっているのか? 社会的闘争の次元と同じように欲望の次元においても現実の政治的諸問題を明らかにすることができるのだろうか? 私生活と公的生活の区別を維持しているかぎり、袋小路からぬけだすことはできないということなのだ! (略)
 欲望の政治と革命的政治との関係を真剣に語り始めるやり方は、多分こうした枠組みとは別の枠組みでも想定しうるであろうが、ともあれそのためには《問題をつつみ隠さずもちだして》、《無遠慮をかえりみない》作風が必要とされるだろう! (グァタリ「精神分析と政治」、『政治と精神分析 (叢書・ウニベルシタス)』pp.14-5)

これはまだ呼びかけであって、「そこにどんな問題が現れざるを得ないか」の分析ではないし、そのことをめぐる具体的提案にもたどり着いていない。
そもそも≪全てをアーカイブ化し、全てを素材化したうえでみずからの当事者性をめぐって考える≫という社会参加の方針そのものが許されない現状では、最初の第一歩すら踏み出されていない*3

  • 「ひきこもり当事者」という名詞形は、それ自体がアプローチの間違いを体現している。
    • 現状では、当事者論がキャラクター論の上に乗っている*4。 逆だ。 キャラクター論は、間違った当事者論のフォーマットの上に乗っている*5。 キャラクター論をそういう手つきでやることが、ひきこもり論の間違いを体現している。
    • それは、閉じこもる本人がすでに生きている袋小路の路線にしかない。 「論じ方」が共犯者であることに気づかれていない*6
    • 《本業/副業》という欺瞞的区分も含め、論じ手の概念と議論の方針が、間違ったまま展開されている。 社会参加について、自分たちが何をやっているかを分析できる「専門家」が、一人もいない。



概念策定の方針は、すでに論者の参加方針を体現し、集団の方針を決めてしまっている。そこから外れる者は、参加できなくなる。既存の引きこもり論は、《論者たち自身の当事者的分析》という趣旨を欠いているがゆえに、「メタから否定すること」と、「メタから肯定すること」の間を往復しているにすぎない。 「すでにどんな参加がなされてしまっているか」を分析することが、徹底して忌避され、抑圧されている。


《自分が何をやってしまっているか》は、底が抜けている。




*1:職場であれ仲間であれ

*2:カテゴリーとしての「○○当事者」に居直る人は、当事者ナルシシズムを生きるにすぎない(そこに分析はない)。 私自身が混乱を続け、勘違いを続けてしまった。

*3:ウィキリークスが、貴重な何歩かを示している。

*4:「カミングアウト」した個人は、残りの人生すべてを「○○当事者」のキャラで生きなければならないことになる。そのことが本人をさらに悪化させても。

*5:論じ手は、メタ言説を振りかざすことで環境を悪化させる張本人となっている。論者はそのような方針で参加しつつ、持続的な環境づくりに加担しているひとりなのだ。

*6:斎藤環氏は、もうこのまま間違った路線でいくつもりなのだろう。だとすれば周囲の者は、彼が間違ったまま変わらないことを前提にした状況分析と行動が要る(ひきこもる人への方針策定のように)。 同様のあきらめが、アカデミズムや医療・福祉の全体について必要だ。分析は、置かれた状況の中でそのつど一からやり直さなければならない。