「臓器の損傷」なら、医学に任せればよい。 しかしヒトの苦しさについては、
(1)主観性の生産それじたいの問題と、(2)合意形成の問題
があって、その2つは絡み合う*1。
これらは、おのれの当事者性をどう生きるか、という問いに重なる*2。
人は人である限り、当事者性を帯びる*3。
私たちの意識やふるまいを強烈に支配する当事者概念は、暗黙に押し付けられている*4。 それを彫琢することは、特異な臨床事業と言える。
当事者概念の、主観性や労働過程の要因までともなった再検証は、近現代のヨーロッパの論者しかやっていない(※追記参照)。 当事者概念の再創造という意味での臨床事業は、彼らを研究せずに済ませられない。
山森裕毅氏の記した「法‐契約‐制度‐強度」は、当事者概念をどう設計するかの分類と言える。
苦しみを和らげるには、どのスタイルが有益か。 あるいは合わせ技か。
それとも、ここにはないスタイルか。
上の4つでは「強度」だけが、合意形成のモチーフを含まないように見える。
そこにキモがある。 この問題は、ソーカル事件に直結する。
フーコー/デリダ/ガタリは、法や精神医療に原理的な問いを突きつけながら、実務的な影響力をほとんど持ち得ていない。例えば私は、彼らの著作から個人的な恩恵を得たが、それはあくまで私的な読書としてであって、だとすれば「趣味」でしかない。 ⇒私は、「必要悪としての行政的な実務」に苦しみつつ、ガス抜きとしてああした発言を楽しむしかないだろうか(マンガや詩を読むように)。
20世紀フランスの議論は、行政書類に書き込める主張や制度を設計できるだろうか。逆に言うと、行政手続きに乗るような見解は、苦痛緩和の役に立つだろうか。(アカデミックな形式を踏襲することが、必要な配慮を裏切るとしたら?)
【追記】
この議論は歴史的に、英・独・仏語を中心とした西欧語でやらざるを得なかった(そういうものしか生き残っていない)ということか。 現時点の日本語から問題を再構成することが、遠近法的錯視をふくんでしまう。 概念の配置は、それ自体が地政学的条件を生きる。
subjectum / citoyen / souveraineté / human rights / entitlement / Proletariat / subaltern ――こうした概念をめぐる運動は、自覚されないまま臨床事業を生きていた、という言い方はできるかもしれない*5。 あるいは苦痛緩和という趣旨は、多くは民族文化や宗教の文脈にある。
とはいえ今のところ、「主観性の生産」を、社会思想と掛け合わせて論じる事業は、数えるほどしかない*6。 関連するニーズの異様な高まりにもかかわらず、「批評と臨床」「精神病理学」といったモチーフも、衰退したままだ。
《当事者》という、法学や政治学にも還元しにくい概念*7の生きられ方を変えようとすることは、日本語の文脈を濃厚に帯びたあとの姿であり、それを逆手に取っている。 努力は、現時点の環境を資源とし、それを起点にするしかない。(概念の配置や生きられ方は、具体的な環境要因となっている。)
*1:生化学的な研究は、これらについて一つのスタイルを押しつけるにすぎない。 「生化学がすべてだ」とすることの暗黙の前提を問い直すことが許されていない。精神医学を「科学」と詐称し、「科学でよい」とうそぶく人たち。
*2:学問言説の多くは、おのれの当事者性を抑圧したポーズによって参加権限を得ているので、問題構造そのものを引き受けることができない。
*3:「負債」「応答責任」は、物質はもちろん動物にもあり得ない。 逆にいうと当事者性は、自然からの致命的な「ズレ」として生きられる。
*4:従わなければ、「職業倫理上許されない」とか、「社会性がない」とされる。
*5:ここでは名詞形ばかり取り上げている。しかし当事者概念の今後においては、むしろ動詞化こそが問われる。
*6:私がフェリックス・ガタリやジャン・ウリに注目するのはこの点から。 「弱者に “当事者発言” させる」のではなく、ガタリやウリ本人が、自分の置かれた状況を内在的に語る――その意味で「当事者的に分析する」――ことを、彼らの文脈でやっているのではないか、という興味。 ある場所をメタから “観察” し、自分がどういう関係を持ったかを隠蔽して「業績」だけかすめ取るような語りを、彼らは決して認めないように見える。 ▼とはいえそのことは、彼らなりの “当事者発言” が成功していることを保証しない。 「何をやってしまっていたのか」、その検証の余地こそが主観性と関係性を可能にする方法論は、自分だけを100%の正しさに確保することができない。 つねに「分析されていない制度や失敗」、あるいは技法上の問いが残る。 西洋知識人をアイドルにするのではなく、自分のいる場所を(単に外部から非難するのでなく)自分でやり直す必要がある。 ▼私はこの件で、医師・学者・ジャーナリストの語りに激怒している。 こうした “専門家” らによる、おのれの当事者性を無視した語りを許すべきではない。 ここで当事者性と言った瞬間に、「彼らにも引きこもり傾向ありますもんね」という話になる。私はそういう意味で当事者と言ったのではない。 「目の前の関係を黙殺し、メタに語って許されると思うな」ということだ(そういう輩に限って、情念的に“ひきこもり当事者”を肯定してみせる。その肯定のポーズが、論者のメタな正当性を担保する)。 「メタな語りが許されない」という専門的コンセンサスこそ、この問題に詳しくない人たちに、そして誰よりも引きこもる本人や関係者に伝播するべきなのだ(ひきこもる本人こそがメタ語りと自滅を往復している)。 今は専門家気取りの人々じしんが、こぞってメタ語りでふんぞり返り、その語りの悪弊が、苦しさの構造そのものを成している。これは、倫理上の怒りであるとともに、臨床上の着眼そのものとなっている。
*7:福祉領域では、「利用者さん」といった言い換えもなされる。