「シニフィアンの支柱」、「記号論的な足場」、「装置」

意味の彼方へ―ラカンの治療学

意味の彼方へ―ラカンの治療学

pp.249-250、ジャック=アラン・ミレールの発言より(以下、強調はすべて引用者)

 つまりエディプス・コンプレックスを、大文字の他者の場所の中の構造として位置づけたのです。すなわち、ラカンフロイトによるエディプス・コンプレックスを、正常な主体の世界における、原初的シニフィアンの支柱(armature)と見なしたのです。 構造の論理的形式化という概念をよく理解する必要があります。 自分のまわりに組織化された世界をもつというのはそれほど単純なことではありません。 ラカンの観念は、主体の世界がうまく成りたつためには、常に最小限のシニフィアンが必要だということです。 30年以上にわたって続いた教育の中で、ラカンは根底にある基本的な構造を常にあらたに形式化することに努力を傾けました。
 座るためには、ここにあるように、四つの足をもった構造(イス)が提供されています。こうして私は座ることができ、安定していることができます。もし私がノコギリで(イスの)脚を一本切ったら、座ろうとすると私は床に転びます。すなわち、本質的な支柱の一本がわれわれに欠けているということです。もし脚が三本ならば、それらを少しずつずらすことによって座ることもできます。しかしもし二本だと、それは少し困難になってきます。それは羊飼いの竹馬のようなものです。一本足のイス――英国にはあるそうですが――そういう椅子に座るのもあるいは可能かもしれません。さらには脚が一本もなくても、ヨガの行者のように座って瞑想できるかもしれません。
 ラカンの念頭にあったのは、「主体にとって正常な世界を構成するための、原初的にして最小限のシニフィアンの支柱とは何か」を探求することでした。例えば彼はまず最初に、エディプス・コンプレックスの形式化を提出しました。その後、「主の語らい(discours du maître)」*1と呼んだものを、さらに後には「ボロメオの結び目nœud borroméen)」を提出するにいたります。これらはまったく異なった構造をもっていますが、しかしそれらは「原初的にして最小限の構造とは何か」という同じ問いに対する解答なのです。原初的な構造を把握可能にするための異なったパースペクティヴなのです。
 1957〜58年における精神病についてのテクスト(「予備的問題」*2)では、ラカンは原初的構造を構成するために、フロイトエディプス・コンプレックスを利用しました。彼はそこで、エディプス・コンプレックス言語学的な定式化を与えています。それはシニフィアンシニフィエに命令し支配する(commander)という考え方から出発するものです。

原文は手に入らないが*3、この「最小限のシニフィアンの支柱(armature)」という表現を、
例えばミレールは以下のように使っている(PDF)

 Et au fond il a toujours cherché à préciser l’armature signifiante minimale pour que le sujet se tienne à peu près,...



ここでミレールがラカンを解説しようとして持ち出した「最小限のシニフィアンの支柱(armature signifiante minimale)」というモチーフを、ガタリのいう記号論的な足場(échafaudage sémiotique)」参照)と対比させるべきだろう。
ガタリは執拗に「シニフィアン専制」を批判するが、逆にいうとガタリには、「それがなくては世界を構成できない支柱」という問題設定はあるだろうか。


ガタリウリ兄弟の《制度》概念を経由して*4ラカンを批判するに至っており、ここではラカン的なシニフィアンが、記号論的な制度概念に対立させられている。
ジャン・ウリが制度論的な立場からラカンを批判しつつ、『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』に怒ったのは、この「シニフィアンの支柱」という考えをウリが堅持しているから――私はそう理解している*5


《装置(apparatus)》は言説的(discursif)か?

ガタリとの対比では「制度に対してシニフィアンを擁護する」側に見えるJ.-A.ミレールは、しかしフーコーに対して、「制度はそれ自体が言説的である」という立場をとっている(参照)。

Jacques-Alain MILLER : With the introduction of 'apparatuses' you want to get beyond discourse. But these new ensembles which articulate together so many different elements remain nonetheless signifying ensembles. I can't quite see how you could be getting at a 'non-discoursive' domain. 
FOUCAULT : In trying to identify an apparatus, I look for the elements which participate in a rationality, a given form of co-ordination, except that...
J.-A. MILLER : One shouldn't say rationality, or we would be back with the episteme again.
〔....〕
FOUCAULT : The term 'institution' is generally applied to every kind of more-or-less constrained, learned behaviour. Everything which functions in a society as a system of constraint and which isn't an utterance, in short, all the field of the non-discoursive social, is an institution.
J.-A. MILLER : But clearly the institution is itself discursive.
FOUCAULT : Yes, if you like, but it doesn't much matter for my notion of the apparatus to be able to say that this is discursive and that isn't ... given that my problem isn't a linguistic one.

拙訳:

ジャック=アラン・ミレール : 「〔権力〕装置」の導入によって、あなたは言説を越えたがっている。しかし、結合して多くの異なった要素を分節する新しい総体は、やはり「意味する」総体です。 あなたがどうやって「非言説的」領野にいられるのか、よくわかりません。
フーコー : 装置を見極めようとすることで、私は合理性に関わる総体を探しています。共-序列の与えられた形式、といっても...
J.-A.ミレール : 合理性と言うべきではないでしょう。というか、あらためてエピステーメーに戻りましょう。
(略)
フーコー : 「制度」という語は、一般にあらゆる種類の、多かれ少なかれ強制された、学ばれた行為に適用されます。社会において、強制のシステムとして機能するあらゆるものであり、言表ではない全てのものです。要するに、非-言説的な社会的なものの領野すべてが、制度です。
J.-A.ミレール : でも明らかに、制度はそれ自体が言説的です。
フーコー : ええ、あなたがそう考えたいなら。しかし、「これは言説的で、あれは違う」などと言えるとしても、それは「装置」という私の概念にとって、あまり重要なことではないのです。・・・・わたしの問題は言語学的なものではないのですから。



スピヴァクはこの同じ箇所の末尾部分を『サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)』(p.27)で引用し、「言説分析の大家から、どうしてまたこのような言語(langage)と言説(discourse)を混同した発言が出てくるのだろうか Why this conflation of langage and discourse from the master of discourse analysis?」とフーコーを批判している。


また廣瀬浩司氏の新刊

後期フーコー 権力から主体へ

後期フーコー 権力から主体へ

は、ウリ/ガタリや制度概念との関係に言及している。

 フーコーは反精神医学の運動を「制度=施設」批判とみなし、そこにトスケイエス、ウリらの「制度論的分析(analyse institutionnelle)」も加えているが、このような「制度」の名における闘争全体、さらには「制度」概念そのものについて、講義の随所で批判的なコメントを繰り返している(...)。 (略) いずれにせよ、「制度」概念からの距離の取り方が、さまざまな場面でフーコー思想の核心に関係していることは間違いがない。 (pp.68-72)



J.-A.ミレールとガタリには、シニフィアンや制度/記号をめぐる立場の違いはあるものの、ともに精神科臨床を引き受けようとする問題設定がある。しかしフーコーには、権力批判のモチーフはあっても、「自分が臨床にどうコミットするのか」は見えてこない。
臨床的趣旨を無視し、権力批判それ自体が自己目的化するなら、それは「権力批判」という自己構成が本人にとって臨床的に機能し得る、という大前提に乗っかることになる。 私にはそれは、イデオロギー的主体化のナルシシズムに惑溺することに思える。 廣瀬氏の扱うフーコー最晩年のモチーフが、そのあたりをどう扱っているかが気になる。




*1:こちらには、「主人のディスクールとは主人からの分離のディスクールに他ならない」という解説がある。 ひきこもる人の過剰なプライドと説教好きは、破綻しそうな自己を「主人の言説」で支える姿にも見える。

*2:「D'une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose」のことで、『Écrits』に所収。

*3:この本は、1990年にJ.-A.ミレールほかラカン派の人々が来日し、京都と東京で行なわれたイベントをまとめて邦訳したもの。フランス語原文は公刊されていない。

*4:この制度概念に関連する論者として、メルロ=ポンティがいる(参照)。 ガタリはインタビューで、「メルロ=ポンティからは大きな影響を受けた」と打ち明けており(『政治から記号まで―思想の発生現場から』p.25)、その発言の録音ファイルがこちらのサイトにある(1980-10-18、タイトル「Maurice Merleau-Pont」)。 ただし、メルロ=ポンティが制度概念を論じた講義や書籍を、ガタリが(いつ)参照していたかは不明。

*5:≪ウリもトスケルもガタリの「アンチ・オイディプス」というアイデアには反対のようだ。ここの争点の本質を知りたい≫という山森裕毅氏の発言に対して。