《制度》という怖い話

知人との議論で、制度論がさらに進展したように思うので、備忘録的に記しておく。


支援対象者がひとり死んでいるのに、なんで「何もなかった」みたいになるのか。
既存の法では、責任追及できない。 いわば「犯人なき殺人」をこそ、制度分析は論じなければならない

    • 「医者なんてどうせ向精神薬自動販売機」とメタに立ったつもりが、本当に助けが必要な時に頼れる医師が一人もいなかったケース。 精神医療のコンビニ化は、実はおぞましい落とし穴を増やしている。

法と契約だけでは、死んだ人に何が起こったか論じられない*1
制度を論じ、操縦しなければならない。 単なるシニカルさは、頭が悪い。


「脱施設」にばかり熱心で、「脱制度」を論じない硬直ぶりが人を殺した*2。 しかし彼らが制度に内部化されるアリバイを満たしていれば、実態を暴いてしまう制度分析こそが禁じられる*3
《当事者性=責任》を抑圧することで、彼らの詐欺的正当化が成り立つ。 その居直りを下品だと言えば、「当事者性を話題にすることこそが下品だ」と罵られる。 しかし、検証を潔く認めることのどこが下卑ているのか。

    • ここで私は自分を糾弾側としているが、制度をめぐる柔軟な分析や対応は、孤立していては無理。 実際の関係性でトラブルは常に起こるから、それを具体的に検証できる体制づくりが要る。 メタな医学知識に権威性が集中し、ソーシャルワーク的活動の位置づけが著しく低いという現状は、それ自体が問題構造の一部を成している。



「哲学者に制度は要らない」と言いつつご自分は制度に勤務する丹生谷貴志氏。 それより、「制度内にいながら制度を複数の言語で語れるか」と問うた鈴木創士氏のほうが、決定的な議論をしている(参照)。 丹生谷氏は、在野で休日に考える人を哲学者と呼ぶかもしれない。 しかし、どこの制度にいるのであれ、自分のいる場所を内部から分析してみせることが哲学者ではないのか。 哲学者とは、「状況に対する反応を調べるための被験者(réactif)」*4。 脱制度と呼んでも、脱構築と呼んでもよい。 それは分析を示しつつ被験者となること。 ガタリなら同じことを「触媒」と呼んだだろう(参照)。 


人を笑わせる能力は、縦軸を生じさせる力と関係している*5
説得力のない人は、ひとを笑わせられない。 単なる水平的共存に笑いはない*6
「笑わせる」と、「笑われる」の境界は、きわどい*7
「笑わせる」だけでいられると思うな。
笑いが起きていないということは、縦軸に失敗している。 「大事な話をしているからこれでいい」と思うのは間違い。 単なるマジメさは自滅路線。

    • だからと言って、単におちゃらければいいのではない。 真面目の反対は不真面目ではない。 分析だ。



「横断性」「リゾーム」と言えば、無条件に縦軸でいられると思い込むダメ左翼。
「お前、水平的じゃないな、自己批判しろ」というのは、ほとんど持ちネタレベル。 領土的支配で甘えてるだけ*8
リベラリズムで恫喝する者は、自分の足元を分析しない。 むしろ自分を不問にするために、「多様性を肯定」する。


現状の当事者概念は、脱領土化ではなく領土への居直りになっている。
上野千鶴子的な当事者論は、単に恫喝に使われている(「当事者の言ってることだぞ!」)。
「ニーズ」で語られる当事者ポジションは、《お客様》でしかない。 大学と同じく、福祉や医療のサービス産業化を進めるだけであり(自動販売機)、関係責任としての各人の当事者性はむしろ抑圧される。


「臨床は医師以外が口にしてはいけない」という防衛的態度は、良心的に見えてたいへん卑怯。 なぜなら、そう言いながら関係性はすでに生きているから。 むしろ反対で、臨床的配慮は、すでに全員にリアルタイムに問われている。 すでに関係性を生きているくせに、臨床的配慮をせずにメタな正しさに居直れると思う連中こそ許せない。
「臨床は医師の役目」と決めつけ、そのうえで医師さえ叩いておけば自分の Political Correctness が維持できると思い込むダメ左翼*9


一神教を背景とする西洋での主体化や制度と、日本でのそれは別。
日本で制度は、《当事者 toujisha》 概念とセットで論じるべき。


優等生ごっこで語れと言われても無理。 しかし引きこもりについてなら、7年語り続けた。 それは「忘れられないから」ではなく、現在形の問題。 ひきこもりに生じていることは、現代社会で流通している概念装置では処理できない。 「苦しいから」というより、「原理的にそれでは論じられていないから」傷なのだ。 ドゥルーズのいう思考の受動性はこれだろう。 なんで彼らは「頭イイごっこ」で終われるんだ。 動機づけが不明。



*1:ドゥルーズによるガタリ論「集団に関する3つ問題」を参照。 「制度を使った精神療法 Psychothérapie institutionnelle がその主要提案のなかに抑圧的な法の批判とならんでリベラルと称される契約の批判を含んでいるのは驚くにあたらない。 Psychothérapie institutionnelle は、そのような契約を新たな制度モデルでとって替えようとしているのである。」

*2:「脱施設」を論じることで、おのれの制度内存在を担保する左翼系論者たち。 「脱施設」だけならイデオロギー連呼で済むが、《脱制度》に取り組むためには、柔軟でリアルタイムの分析が要る。 《脱制度》は、単に制度を否定することではない。 自分だけが制度外と思っていても、すでに私たちの意識や生活は《制度的に》硬直している。 【こうした制度理解については、廣瀬浩司氏の制度論を参照。】

*3:制度分析的な理解を口にすれば、名誉棄損で訴えられるかもしれない。 とはいえそれは、多くの人が身近な人とささやき合っている内容だ。

*4:フランソワ・シャトレ『理性の歴史を語る―エミール・ノエルとの対話』p.257

*5:ある番組での水道橋博士氏によると、笑わせることはその場の《強さ》に関係しているという。 「その場でいちばん強い奴が笑わせる」。 その強さは、領土的支配だろうか。

*6:はしゃぐだけのバラエティ番組には、分析の縦軸が生じていない。

*7:立原啓裕氏が後輩に芸風を紹介されるとき、「《笑わせる》と《笑われる》のあいだで…」みたいに言われ、「笑われとんのかい!」と番組中にキレたことがあった。 重要な示唆。

*8:暴君のようなひきこもりは、領土的でしかない。 そして大抵は、それを批判する側も領土的でしかない。

*9:この防衛的態度は、自分ひとりが優等生になる路線でしかない。 巻き込まれた自分の当事者性を論じる態度ではない。 分析の即物性をもって触媒になってはいない。