映画 『インセプション』

ueyamakzk2010-07-29

観てよかった。
以下「作品批評」ではなく、考えたことをメモします(追記あり)。
【ネタバレ注意】


inception は、

 組織・制度・活動などのはじまり、その始まりの創設

を意味するらしい(参照)。



    • Inception Infographic(リンク先の図をクリックで拡大)
      • 話の構造を図示してくれている。これは分かりやすい。
      • それぞれの階層で防御に留まった人は、夢の主だったんだ…。



夢の階層化。 上の層で起こったことが下の層に影響する。 下の層で長い時間が流れても、上の層では少ししか経っていない、という設定が秀逸すぎる。


死んだら別の現実に目覚めるかもしれない――古く熱い夢。 別の現実があるなら、居残る理由は問い直される*1東浩紀クォンタム・ファミリーズ』でも感じたこと(参照)。 「この場で頑張るしかない」の絶望をどう支えるか。


《自分の現実》に引きこもる。 相手を、都合のよい活動に動機づける――この映画には、ひきこもりをめぐるモチーフがある。 こちらの記事には、「実存強盗 existential heist」*2と書かれている。 相手を思い通りに動機づけることは、この映画では非合法とされている。(ひきこもり支援は、本質的に非合法活動でないかどうか。)


生活が現実として支えられないなら、内面から破綻する。 再分配の話だけしていると、生き延びる動機づけ自体が見えなくなる。


この作品世界には、「情報を抜き取る」技術はあるが、記憶を消す技術はない*3与えられた記憶と、解釈の書き換えで動機づけが成り立つ。 コブ(ディカプリオ)の妻は、簡単なアイデアinception の結果、本当の現実に留まれなくなった。



「眠りに来るのではない、むしろ覚醒しにやってくるのだ」――本当の現実を生きるために。
最終的な現実はどれか。


「なんで戻ってきた?」 「・・・・天地創造だもの」
映画製作の醍醐味も、天地創造だろうか。
しかし私は、《本物の現実》にしか興味がない。 現実が現実でしかあり得ないことに激怒している*4。 フィクションを楽しめないのは、生活の必要としても、ミッションへの強迫としても、《本物の現実》に急き立てられているから。


本物の現実は《彼らの現実》であり、私はバラバラにされる。 意味をつくり直すチャンスはない、そんな場所で肉体を維持する理由は何か。 私は素材だ――何の? 利用されるだけなら彼らの絵具。


「うまくいきすぎるのは彼女じゃない、彼女はもっと・・・複雑で、どうしようもない、だからいとおしい」*5


誰かの夢の中で全員が同席できる・・・・『マトリックス』と似ているが、夢の世界の設計者が違う。 すべて人工的な「マトリックス」では解読者が超人化したが*6、本物の夢ではできない。



どうしてみんながコブの《夢=現実》に影響されるか。
一人の現実がまとまりを帯びれば、それは他の人の現実をバラバラな労苦に引き裂く。 つまり社会は、「誰の現実が誰の現実を踏みにじるか」ということ。


妻が自分の現実に固執し、夫の説得を拒絶するシーンでは、自然な涙が流れた。 私たちは、深部で血を流し続けている。 本当の琴線は、お涙ちょうだいの弱者物語ではなく、描き切られた現実感にあるらしい。 この監督(クリストファー・ノーラン)は、酷薄に描くほうが感情に訴えることに気づいている。 映画本編が始まる前、安っぽい青春映画の予告が流れたが、感傷的な実存描写は精神論でしかなく、本当にシラケる。 《現実》の条件を描く方がいい。 それは科学とは別の意味での《理論》であり、理論のある作品だけが現実に取り組み直させる(inception*7。 「感性に頼った」作品は、安っぽい理論に身を任せただけ。


《私の現実》を描いた映画を、何百万人もが鑑賞する。 ことほどさように現実は無記名であり、各人は自分の現実を生き直すしかない。 生身にできるのは、条件整備をして、せいぜい組み直すこと。


この作品が物足りないのは、努力の展開に豊かさがないこと。 心的装置とそれをめぐるデバイスに振り回されるだけで、装置を再構成したり、役割を切り替えたりする自由がない。 映画全体は「企業の御曹司に会社をつぶさせる」だけであり、サイトー(渡辺謙)が依頼内容を説明するシーンには、そこはかとないシラケが漂う。


自分の現実に固執することは、本物の現実を無視することでしかないか。 現実に適合するためには、自分の現実(無意識的なそれ)を忘れなければならないか。 どの仕組みに働きかけることで、どんなふうに組み直せるか。



7月30日 【追記】

剥き出しすぎる現実も、破綻と背中合わせで人を動かす(参照)。
幻想の破壊と、理解への従事。 inception の二極。


死にゆく社長の《夢=現実》が息子ロバートをしめ付け、その息子の存在がサイトーの邪魔になる。 この映画全体を通して、じつはサイトーこそが自分の《夢=現実》に引きこもろうとしている。 ロバートは、サイトーから見れば思惑通りだが、むしろ本人の解釈を生き直そうとしている――父の欲望を受け取りながら(inception)。 アリアドネエレン・ペイジ)も、最初は興味のなかった仕事にのめり込んでいる。 つまりこの映画は、お互いの inception の絡み合いを描きながら、サイトーについてだけは、全員が彼の引きこもりに加担している――ひきこもりを全面肯定する」ように*8ひきこもる相手に働きかけて、自分の事業に引きこもろうとする日本人がサイトーという名前だったことは・・・



*1:現実の生は、「放課後の居残り」みたいなもの。 次々と死んで、門を出てゆく(参照)。 とはいえ、本当に出ていきたいと思っているのか。 与えられた体験に、すでに受け身の内発性が生まれていないか。

*2:【追記】: この映画のサウンド・トラックには「mind heist」(心の強盗)がありますし(参照)、「existencial」は形容詞なので、正確には「実存主義的な強盗」でしょうか。 しかしこの作品は、まさに「実存強盗」の話だったと思います。真の動機づけを与える《現実》を、別様に組み替えること。

*3:死んだ妻への罪悪感や子どもへの愛情は消せない。

*4:この不毛な幼稚さに留まることはできない。 それが最悪の行き詰まりであり、同時に最高の動機づけになっている。

*5:The End of Evangelion』のラストシーンを思い出す

*6:斎藤環は、『マトリックス』末尾でネオが読み取る緑色の文字列をラカン象徴界に重ねていた。 映画の理解としては私もそんな連想をしていたが、「解読者が超人化する」という万能感には再考が要る。 ひたすら《解読》に労働を固着させることは、それ自体がファンタジーへの閉じこもりにあたる。 ここでは生産様式それ自体が幻想のフレームになる。 結果物は商品として流通し、同じ生産様式にはまり込む人を増やす。 ひきこもる人の再帰的意識は、パターン化した生産様式を幻想のフレームとし、固着している。

*7:私が芸術に期待する機能。 現実を変えはしないが、取り組み直す入り口になる。 この作品が、現実に取り組み直す inception(起点) になるかどうか。

*8:虚無に落ち込んだサイトーのサルベージも、飛行機で眠るサイトーの枠内にある。 サイトーの身勝手な《夢=現実》だけは誰からも inception を受けないが、そのレベルに働きかけてしまうと、この映画のプロット全体が破綻してしまう。