メモ――順応と制作

  • 単に「順応する」では救えない何かを問題にすることでしか、自分や他人を尊重することはできないと思う。 他人を怖がったり、生きていることを怖がったりすることはできても。 ▼逆に言うと、単なる反発も不毛でしかない。


  • 単なる順応では、すでに成立した動機づけを推進することによる自己確認の気持ちよさはあっても、そういう推進自体が成り立たない頓挫そのもの(ひきこもり)を問題化することはできない。


  • ひきこもりとは、価値的格闘ができなくなっていること(実存の政治的弱体化)であり、既存のディシプリン(規範化された専門性の手続き)を参照することには、手段としての意味がある。 ▼ディシプリンの覇権*1自体が目的なのではない(格闘の道具にすぎない)。 至高の価値は、違和感や怒りそのものにある。


  • ナルシストの純粋ごっこ、分析自慢のインテリごっこでは、空虚さに負けてしまう。 ごっこ遊びのナルシシズムが、他者への威圧として機能する。 ▼そこでは「価値」は、鏡像の確認であり、違和感やリアリティへの着手が問題化されない。 監禁された自意識のセンチメンタリズムが、至高の価値になってしまう。 怒りが分節されず、ぶち切れた激怒が反復される(政治的には弱さの極み)。


  • 生きる努力は、制作的な取り組みそのものとしてしか、価値的に維持されない。 プロセスを共有するのでなければ、私は「使われる」存在として遺棄されるしかなくなる*2。 ▼自他のナルシシズムを許さないような「激怒=リアリティ」が、実存の詩学の根幹として論点化される必要がある。


  • 内発的動機づけは、「いつの間にかそうなっていた」という事後的な発見でしかあり得ない(つまり精神分析的なモチーフ)。 事後的に気づかれる非合理な固執なしには、価値は成り立たない*3。 無理やり取り組んでもダメ(反復する端的な空虚に負ける)。 血肉化した不可避の苦痛に取り組むのでなければ、自分がバラバラに解体してしまう(自分を構成することができない)。




*1:順応しか考えていない人間は、他人を道具化して覇権を作ろうとする。――左翼的イデオロギーへの順応であっても同じこと。

*2:「使われる」ことへの納得は、価値的共有において成立する。 「同じものを目指しているのだから」。

*3:気になるのは、ナルシシズム自体が「内発的動機づけ」として機能し、「それで構わない」とするシニカルな姿勢が支配的に思えること。 ただし見下したヒロイズム(ナルシストのインテリごっこ)と、「何もしない地道な生活者」では、前者のほうが有益なこともある・・・。