制度分析的な当事者論

ナルシシズムの発露とは別の、分析的な「本人による議論」が必要だ。語ったり書いたりすること、それを事後的に分析することは、硬直したナルシシズムの制度から自由になることだし、そうでなければ言葉を尽くす意味がない。現状では、「語れば語るほど独りよがりになる」というタイプばかりに見える。

「状況には課題がある。ナルシシズムにかまけている場合ではない」という言い方は、それ自体が(課題の制度を硬直させたままの)ナルシシズムであり得る。自分の組み込まれた環境や、自分が生きている意識の制度への分析を欠いたまま、「やるべきこと」に没頭することでアリバイを得る。一つの分析スタイルは、それ自体が硬直した制度であり得る。その分析遂行の動機付けは、あんがいナルシシズムや私利私欲でしかない。
ナルシシズムしか許されない場は本当に苦しい。その苦しさを単に本人のせいにしたり、「やるべきことをやれ」とのみ言うのではなく、無私化する分析を導入し、そのことで関係に参加すること(そうでなければ、単にその場を離れること)。それは単なる順応ではないし、単なる反発や怠惰でもない。
「自分の置かれた現場について分析的に語る」という、その《語りの構図》が導入されるべきであって、(妙な言い方になるが)誰が語っているかはどうでもいい。