2007-09-19から1日間の記事一覧

「正義」の制度的硬直

「正義はあっても分析はない」ような人たち。 「正義の味方」を演じているつもりの、幼稚なナルシシズム。(とはいえ、実際の行動においては、そうした硬直した態度が必要だ。自意識のエクスキューズは、たいてい「何もしないでいる」ことの言い訳でしかない…

「当事者=イノセンス」の政治性

現代芸術を見た多くの人が、「こんなものは子どもにでも描ける」とため息をつく。超絶技巧が専門性で、子どもの絵が単なる幼稚な弛緩でしかないとしたら、現代芸術を形作るたくさんの「流派」は、あれはいったい何をしているのか。 これについて、専門性と批…

制度的硬直と、受肉した情熱

ひきこもっている人は、社会の制度に登録されていないが、本人自身が硬直した意識の制度を生きている。 日本が「悪い場所」*1だとしたら、その悪い場所にいる《当事者》として自己分析的に、あるいは環境分析的に、自分の居る場所を分析し、そこで換骨奪胎的…

動機づけの成功と制度

何かに熱心に取り組むとき、私たちは制度の中にいる。自転車に乗るときに筋肉の動きを意識しないように(意識しているときは乗れていない)、動機づけと能力の高さは、自意識の解除と同時に起こる(斎藤環が引きこもりについて指摘する「再帰性」の問題)。 …

お金の環境と人間の環境

多くの制度的強制力やナルシシズムには、お金が絡んでいる。逆に言うと、お金の流れを生み出せなかった取り組みは、社会的に維持できない。制度への換骨奪胎的な姿勢は、そのまま「お金の流れをせき止めること」にも見える。▼お金の流れは、せき止めればいい…

受傷性と暴力

高度に開放的で分析的な姿勢(メタとベタの往復の徹底した維持)は、あまりにも受傷性が高くなる。それは、くだらないトラブルにも全力で傷ついてしまい、他者の恣意的で傲慢な暴力にも全力でみずからを開いてしまう。開放的姿勢自体が、恐怖をいや増す。こ…

専門性と換骨奪胎

《制度》としてのベタな専門性に対して、メタな(transcendental)目線や、メタを含んだ換骨奪胎的な(transversal)試行錯誤は必要だが、それが特定の専門性に入門できない無能力(無活動)をしか構成しないのでは、どうしようもない。神経症的に孤立したメ…

 論点としての現場  関連メモ

私のブログは、ひきこもりの経験当事者や支援関係者からは「学者ごっこ」と言われ、学者からは「専門性が足らない」と言われることが多いが、真剣に考えようとする人間がそのような葛藤に晒されること自身が、論点としてのひきこもりに内在的な、原理的な問…