10〜11日と、小倉の「北九州市立精神保健福祉センター」にお邪魔*1。
保健師・臨床心理士・精神科医・福祉職のみなさんによる熱心な勉強会が開かれており、たいへん強い刺激を受けた。
何人かの方と共有できたのは、製薬会社の利益主義への怒り*2。
個人的な苦しさを「クスリによって解決しよう」という硬直した指針は、規範的には消費主義に合致しており、企業側にとっても、価値的葛藤を排除したがる人たちにとっても、非常に都合がいい*3。
KHJ親の会(ひきこもりの家族会)による「SAD(社会不安障害)+認知行動療法+SSRI」という選択にも、やはり似た危惧を感じる(多様な選択肢のひとつとしてはアリだとしても)。
「薬でチューニングして何とかしよう」というのは、イデオロギー的には単なる順応主義でしかなく、違和感や価値的格闘(リアリティ)を問題化することが徹底してないがしろにされる。 「闘う努力の道具としての薬」という位置づけが必要だと思う*4。
自分がどうしても譲れないリアリティ=違和感を問題化し、その上でそれを他者との間で調整すること*5、つまり政治的な交渉と格闘を問題にすること。 そうでなければ、「自分の現実を構成できない」という根本の問題に対処できず、他者との関係における「公正さ」を問題にできない。
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- 現実の政治的構成は、他者との関係から遡及的に成り立つのではないか。
*1:すばらしい訪問体験でした。 関係者の皆さん、ありがとうございました。
*2:クスリを全否定すればいいというものでは勿論ないが(それ自体が硬直したイデオロギーになってしまう)、「社会参加できない存在」をめぐる価値観とお金の動きが気になる。
*3:この路線であり得る抵抗は「消費者運動」だが、最初から「消費による適応」というイデオロギーが固定されており、「金を払って消費する」「利用して結果を得る」というサービス・スタイルでしかない。 ▼「一緒に取り組んで作り上げてゆく」という要因がない。
*4:物質操作は、あくまで政治の道具であって、それ自体が「目的」ではない。
*5:そういう要因を侮辱する人間は、自分が覇権を握ることばかり考えている(葛藤が量的な問題でしかない)。 生を賭した価値的格闘を、すべて自意識競争に還元する。