「文脈の政治に負けている」

ひきこもり系の人は、周囲の文脈に順応的にふるまうことがひどく難しい。
単に迎合するのではなく、積極的に文脈を制作していく方向の参加*1を続けるためには、主意主義的な固執(説明しようのない必然性の感覚)がどうしても必要になる。 【参照:「アーティストにとってのオブセッションに相当するもの」】

    • ジジェクパスカルを通じて語ったような「形式的順応」も、完全な空洞のままでは限界がある。



主体の側があまりに弱い状態にあり、一方的にはじかれている間は、情報が情報に見えておらず、「理解する」という営みが成り立たない。 積極的な関与(カウンターの発話)がなければ、「理解」という営みが機能しない。 ▼「理屈っぽくはあるが最終的にはおバカさん(やられっぱなしのお人好し)」という、ひきこもりにありがちな自滅的な人格パターンは、流動性の高い「文脈」に乗れない哀れな姿に見える。 「文脈の政治に負けている」というイメージ。


「こなさなければならない分量」のほうが、「積極的に取り組める分量」よりもはるかに多く、つねにノルマに押しつぶされている。 実存はどんどん萎縮し、続けてゆく動機づけができない。 「早く終わらせたい」で心が支配される。


「政治力」という言葉にはさまざまな定義や理解があり得ると思うが*2、ここでは「内的な文脈の形成力」を重視している。 ▼斎藤環氏の議論では、「形式的枠組みとしての文脈」(その階層構造)は語られても、統辞の力強さとしての文脈形成力――国であれば「人間力」と呼びそうなもの――は語られない*3


自分の置かれた状況で「されるがまま」の人は、圧力につぶれ、自分の現実を構成することができない。 →「〜するべき」という規範の問題ではなく、政治的主体化のために必要な、機能の問題としての「統辞力」*4

    • ひきこもりについて斎藤環氏の指摘する、「自己放下してよいところで自己放下できず、過剰に自分を実体化する*5」という主観の状態は、単に本人の責任というよりも、主観内外の政治的力関係の問題でもあると思う。 うかつに外界に触手を伸ばしても、激烈なバトルに巻き込まれてはじかれるだけ。 ▼たとえばそれは、「本を読むことすらできない」という状態となって現れる。 本を読んでしまえば、私はそこで誰かほかの人の言葉に出会ってしまう。 他者の言葉に出会ってしまえば、私は自分を構成できなくなる。



個人の政治的弱体化には、道徳規範、法律、仲間の存在、労働市場など、さまざまな要因がかかわっている*6。 自分の現実を構成するために最も重要な要因のひとつが、主意的固執(非合理な必然性の感覚)だと思う。 それがなければ、自分個人の意識生活や経済生活を文脈として形成する政治力を持てず、「されるがまま」になる。 実存として、あまりに弱くなる。 ▼ひきこもり系の人が自分を実体化する*7のは、むしろ脆弱さによる「リアクション」といえる。 「剥き出しで晒される」のが耐えられず、実体化する以外の自己維持の方法を知らない。





*1:これについては、ひきこもり経験者の梅林秀行氏が、「作られる社会」としてモチーフ化している。 参照:『引きこもり狩り―アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判』 p.171

*2:「集団的意思決定」、「希少資源の配分」、「権力の行使」など

*3:そういう意味での「形成力」は、ラカン的に言えば「欠如の強烈さ」とか、そういう話になるんだろうか。

*4:こんな言葉はないと思うが

*5:それゆえ欲望の道を生きられない

*6:「弱い個人」というのは、最初から社会的な記述だ。

*7:「自分を実体化」は斎藤環氏の記述を参照。 説得的な表現だと思う。