「プロセスとしての危機」を主題化する必要

今回の一連の批判は、《表象 representation》 に分析を加える斎藤環のやり方に対し、徹底して 《プロセス》 に照準した問題意識や実践案をぶつけている。 ありていに言えば、表象分析という斎藤のスタイルは、臨床的にかえって苦痛を大きくする側面をもつ*1。 それはひきこもりが、表象形成のプロセスそのものに困難を抱えているためだ*2

      • 【※31日追記: ここに記してあった数節分は、かえって主張内容の理解を阻害すると思われたため、いったん削除し、あらためて推敲のうえ、後続のエントリーで掲載しなおします。すみません。】



この私の論考自体が、私にとってある種の転移の帰結であり、治療過程であり、分析労働であり、また関係の組み直しだ。私はここで、みずからの危機を実際に、プロセスとしてなんとかしている。単に誤魔化せばいいのではない。そこには政治的な緊張が賭けられている。私は政治的なプロセスとして実際に自己実現する*3。 誰にとっても同じことであり、まさにそのプロセスにおいてこそ、ひきこもりの危機が生じている。▼ひきこもりの危機は、政治的な自己実現の危機といえる。だとすれば、プロセスとしての政治的危機を直接主題化し、実際にそれに取り組む方策が練られなければならない。直接表象の分析に入る斎藤環の方針は、そうした「政治的プロセスとしての主体の危機」を問題にすることにすっかり失敗している。あるいは、そもそも主題としてそれを持たない。


こうしたことはしかし、斎藤環だけの問題ではない。いきなり神のような視点から「環境管理と動物化」を語る東浩紀や、いきなり超俗と「制度設計のエリーティズム」を問題にする宮台真司は、主体形成に苦痛を抱える各個人の、その主体形成のプロセスそのものをほとんど問題にしない。これでは読者は、自分が体験する政治的危機としての主体の危機に、直接取り組めない。各個人は、実はミクロには政治化されず、主体の危機が放置される。職場や生活環境への直接的な取り組みは放置され、ただ大枠の自意識のフレームとして、大局的な政治意識だけが吹き込まれる。▼彼らに限らず、現在著名な知識人の多くは、読者が実際に自分の居る場所を仕事場にする分析労働のチャンスではなく、ただ「理解できた」というナルシシズムだけを分配しているように見える。彼らの読者は、自分の足元をミクロには分析しない。


その4に続く


*1:《表象》中心の論じ方が問題を持つことについては、もっと一般的な文脈において、三脇康生からの示唆を受けた。 80年代から見られる「表象文化」という言説のスタイル自身が、「プロセスとしての主体の危機」にとって、“臨床的=政治的” な害悪となったのではないか。 表象文化論は、論じている自分自身をプロセスとして問題にするだろうか。 ▼もちろんこうした問題構成は、表象文化論だけに関わることではない。臨床現場の言語や、アカデミズムという言説体制そのものにも問われるべきことだ。

*2:斎藤環氏の講演会で私がメロメロになってしまったことは、こうした意味で反省的に分析する必要がある(参照)。 アカデミズムという場、〈表象〉という問題構成、「科学」という言説・・・。 私はあのとき、言説の意味内容のナルシシズムに「譲歩 céder」してしまったのだと思う。

*3:参照:「精神そのものが政治的な事態