社会学の事業遂行と、『論点ひきこもり』

この座談会は「ひきこもりのリアル」と題されているが、読者は一定の社会学的知見を得るだけで、「ひきこもりのリアルを語れるようになった」というナルシシズムにひたるだろうか。ここでは「リアル」という呼び水と語られた内容がイマジネール(想像的)に利用され、座談会の参加者までが相互承認に陥ってしまう。必要なのは、その相互承認のロジックを分析することだ。その分析自体がすでにひきこもり問題への着手であり、これは調査事業それ自体とは別枠の事業にあたる。

井出: 研究の終了予定は、家族が2年後、不登校調査が3年後、海外比較が5年後くらいですかね。それくらいで一定の成果は出せるかなと思っています。ここまで行けば「ひきこもり」という現象の輪郭はほとんど描けると思います。 (略)
井出: 「ひきこもり」を社会問題化するというのも、社会学者の仕事の一つですよね。社会問題の構築を分析するのみならず、その構築を行う主体でもあらねばならない。

社会学のお仕事として、この計画にはぜひ期待したい。長期的施策の説得にはデータが必要だし、関係者からの需要も高いと思う。――ただしここまでなら、ひきこもりの専門家でなくとも課題の所在に気付くことができる。「社会問題の構築」は、ひきこもりのことを何もご存知ない社会学者からも「やるべきこと」として聞かされた*1。この研究計画は、社会学という既定の生産様式の枠内にある。▼課題に気づくことと、実際にその事業を進めることはまったく別で、井出氏の掲げる研究プロジェクトが重要であることに違いはない。問題は、「プログラムを遂行する」というだけでは裏切ってしまう事情があることだ。それは、単に「業界に配慮する」ということでもない。もっと原理的で、ひきこもりの臨床に深く関わる。逆に言うと、そこを考えることがヒントをもたらす。


井出氏は、みずからがどう制度順応しているかについて、その参入プロセスへの自覚がない。あれこれやってみて、あるスタイルがうまくいったというだけであり、そこで結果的に選択されたスタイルは、同時代で承認されていたある知的生産様式(社会学)にあたる。――肝腎なのは、そこに順応して棲み付くことになったいきさつは、意識されないままであり、また仮に意識されていても、そのプロセスには「順応に向かう」という方針しかないことだ。井出氏自身は、すでに克服したその参入プロセスを意識しない(わざわざ論じない)ことによって順応している(再帰性の問題)。 そこで語られるのは、「社会学的課題設定において何をしなければならないか」であり、その社会的意義にすぎない。
結果的に社会学に順応できた井出氏は、社会学ディシプリンで自分を正当化しているだけの地点から、そもそも順応に向かうプロセスに何が起こっており何が必要なのかという知見を欠いたまま、社会学的であるだけの知見を繰り出す*2。 そのメッセージは最初から順応主義に貫かれており、語ること自体で井出氏は満足を得ても(アカデミックな正誤だけが問題になる)、その生産様式への「居直り」において、目の前の他者が苦しむ主体の危機を、あるいはそこで試みられた分析的な努力を、遂行的に裏切っている*3。 そこで強行された生産様式のプログラム(社会学)は、主体の危機をデータや表象として扱うことはできても、プロセスとして扱うことはできない。


「ひきこもりについての社会学的研究」に通暁することは、ひきこもりの苦痛臨床の方法論に通暁することではない。井出氏自身は、社会学への順応によって、その苦痛臨床の部分を確率的に乗り切り、順応スタイル(生産様式)を日々再生産し、ひきこもりを対象化している*4。 それは、「自分が順応できた社会学のプログラムでひきこもりを研究した」だけであり、苦痛臨床の問題設定自体を、現場的逼迫からオリジナルに創出したわけではない。井出氏のプログラムは、社会学事業を推進する順応的な努力ではあっても、苦痛との関係で編み直しを迫られる苦痛臨床の努力ではない。▼社会学の事業がディシプリンへの順応を求めるとしても(当たり前だ)、ひきこもりの臨床においては、いわば「それ以前」の、規範への参入自体が、作業場として問われている。井出氏はその作業場の話を、まったくできない*5社会学的なデータから、確率的な話ができるだけだ*6社会学の議論プログラムの中にいる以上、作業場(労働過程)の話は、原理的に排除されている。 社会学には、「行為」のメタ語りはあっても、労働過程に内在するモチーフは見当たらない。


私は井出氏とサイトを共有し、そこに『論点ひきこもり』という、苦痛臨床の方法論まで組み込んだタイトルを付けているが、井出氏の現在の、そして今後に予定されている研究事業は、社会学的な生産様式に則ったひきこもり論でしかない(しつこいようだが、それはそれで必要だ)。 調査事業とはまったく別の、苦痛臨床に内在的な「主体のプロセスの話」は*7社会学のプロジェクトからは排除される(メタの王国)。 身体と意味内容とが同時に症候的に構成されるプロセスとしての《論点》という、苦痛臨床から当事者的に編み出された決定的な構図転換は、まったく共有されていない。
井出氏は、そうした構図転換を内在化したことは、一度もないと言うべきなのだろう。その主体の編成(労働編成)は、ひたすら順応の形をしている。単なる順応であれば、事後的な分析は試みられない(参照)。 プロジェクトは安泰であり、そこにあるのは単に事業のナルシシズムだ。
井出氏が単に「社会学」をしか考えておられないなら、『論点ひきこもり』というサイト活動は、社会学的思惑の道具になってしまう。分析なき事業の道具となっては、サイトは論点化の拠点として屹立できず、みずからの場所やプロセスへの分析労働も頓挫する。苦痛臨床に最も必要であるはずのプロセス論や分析の契機がうやむやになり、単なる「社会学の事業」になってしまう。――ここで私は、井出氏との(その社会学的プロジェクト自体との)関係を再考せざるを得ない。





*1:ひきこもりは不可視であるので、なおのこと言説レベルで問題構築しなければならないのだ、と。

*2:実はまったく同じことが、対人支援の現場におられる方々についても言える。「自分は社会参加に成功した者だ」という勝ち誇った自意識の地点から、あるいはさらに、たくさんの事例に接してきたという自負だけの地点から、いきなり労働過程の問題構成を語ることはできない。たいていの場合、そこはご本人にとって空白のままになっている。▼私はここで、「本の知識も、現場の体験も必要ない」と言っているのではない(まったく逆だ)。さらに言えば、「ひきこもる本人ならば分かっている」ということでもない。私がこだわっているのは、いずれの立場の人にも「分析がない」ということだ。単なる理論、単なる現場、単なる当事者は、どこまで言っても平行線で終わる。

*3:方法論的な自覚を持たない「メタ語りへの居直り」は、主体のプロセスに注目する視点からは「害悪だ」と言える。このことは、アカデミシャンや医療言説全般に問い得る。

*4:「生産諸条件の再生産」(マルクス)。 情報の生産条件としての意識の制度(生産様式)が、日々再生産されている。▼ひきこもる者は、社会に承認される意識の制度を、「生産条件」として体現できなくなっている。とはいえそのようなアレルギー的拒絶それ自体として、ひきこもる意識の構造は、「ひきこもる意識の構造」それ自体を再生産してしまう。ひきこもりという生産様式は、みずからの枠組みを再生産しながら維持されてしまう斎藤環の指摘する「再帰性」とは、このことだ。

*5:「井出氏は」と書いているが、これは斎藤環を含む既存のひきこもり論全般の問題だ。

*6:それ以上のディテールを持った臨床論については、わずかの事例から導き出された恣意的な意見や印象論にすぎない(学問ですらない)。▼経験豊富な支援者であっても、単に参照事例が増えるだけで、プロセス自体を方法論的に論じることは難しい。――おそらくこの臨床プロセスのディテールにこそ、支援論の「価値観=政治性」が露骨に表現される。

*7:主体のプロセス自体の遂行的・内在的な論点化は、臨床的であるとともに政治的なモチーフだ。なぜならそれは、主体の従う生産様式の問題であり、過程としてそれを問い直すことだから。 《順応》というのは、生産様式や労働過程の問題であるはずだ。それを語っている私自身が、その語りにおいてある生産様式を生きている。それがつまり、「構成のされ方」だ。