論点としての主体 メモ

  • 「主体があって、それが論点に取り組む」のではない。 主体自身が、論点の実存として成立している。
  • 主体は、実体的な何かではなく、antagonism(敵対性)そのものとして成立する。
  • 言語は、単に差異なのではなくて、論点として成立する。(ラカンなら、それを「欠如」と表現する)
  • 論点は、まさに欲望の実存。 「反論したい」というのは、なんと苛烈な欲望だろうか。
  • 「論じられる対象」でしかない存在*1から、参加的な「論じる主体」へ。 事業として、論じる主体になってゆくとともに、単に事実として、主体はそれ自体として論点である。 病気ではない「論点=主体」は、それとしてすでに参加しており、責任を負う。【治療対象ではなく、交渉関係としてのひきこもり*2
  • 論点は、社会的な緊張として成立する。動物には、《反応》はあっても《論点》はない。
  • 論点であり、言説行為の実存である以上は、最初から「ほかの誰か」が契機として含まれている。論点は、対話的関係の中で支えられる。
  • 「課題として残されている論点」と、それに従事する antagonism の実存としての論点を、分けて理解すること*3。 残された論点は多くても、自分が有益な形で従事できる論点はわずかしかない*4。 論じるという営みの資源としての自分は、時間的にもエネルギー的にも有限。全力のコミュニケーション・コストを、すべての人を相手にかけるわけにはいかない。
  • 主体は、「論点を考える」のではなく、論点として成り立つ。解決すべき課題があって、それの外部で解決を迫られている、というのではなく、みずからは論点の実存としてある。――そう理解することが、臨床的に効果をもつ。
  • 無記名的な《場所》*5としての論点。 「魂」というよりは「論点」
  • 論点の構成には、力関係がある。具体的文脈もある。孤立した真実だから強い、というものではない。論点構成の政治(と効果)。 ▼「治療主義」は、論点構成の「型にはまった制度」として成り立つ。(一つ一つの学問のディシプリンも同じ)
  • 「無意識」というのは、オカルト的な実体ではなく、特殊な形をした「論点」ではないだろうか。 「論点の告知」としての夢。
  • 最中には気づかず、あとになってそれと分かる trauma。 本当に大切な論点は、《最中》にはなかなか掴むことができない。論点は制度として成り立ち、事後的に分析的に再構成されたりする。そういう作業が必要。
  • 斎藤環のいう「実体化」は、論点が硬直した状態。分節できないまま固着している。「象徴界に参加しているが、想像的には社会に参加していない」というのは、「言葉には参加していて論点として成り立っているが、論争的関係に合流できない」ということ。
  • 各人が当事者であるとは、各人が論点であるということ。関係の結節点として、全員が力関係を具体的に生きている。各人は論点として、論じられる「対象」でありつつ、論じる「主体」であり、自分を自分で論じる。 論点として、みずからの参加する制度を換骨奪胎する(参照)。
  • ひきこもりについて、「論点カード」を整理できると思う。






*1:観察対象、被差別民、被支援者

*2:この理解は、私が講演などをさせていただくときの大きな枠組みになっている。(参照

*3:客体的労働条件(死んだ労働)と、主体的労働力(生きた労働)のように。

*4:たとえば数学者にとって、魅力的な未解決問題は多くても、実際に自分で解決に向けて格闘できる問題は限られている。有限な時間のなかで、実際に従事できる時間は限られている。

*5:ハイデガー