「反論したい」という内発性

主意的固執は、フェティシズムばかりでなく、愛や、「議論への固執」であり得る。

荻上: 例えば斎藤環さんは『ビッグイシュー』での上山和樹さんと行っている往復書簡「和樹と環のひきこもり社会論」という連載で、「希望は症状にしかない」と語った上で「オタクになること」を処方箋として提示している。もちろんこれは「オタク的な趣味を持つ人」になれということではなく、オタクのようにコミュニケーションのモード自体に対してアディクションを感じるようになれば「回復」であるというモデルを提示しているのだと思うのですが、しかしそれが提示された場合でさえ、他人がミメーシスなり「生気」なりを与えていくのは難しい問題として残ります。

「反論したい」という欲望だけは、言われるまでもなく生気を与えられている*1
「文脈の形成力」の有力な資源といえる。
ただ、反論への願望は、どんなジャンルやテーマにも沸いてくるわけではない。
その選択は、本人の思うままにならない。



*1:逆に言えば、「反論しても仕方がない」というのは、絶望の最悪の形式かもしれない。