いくつかの死に接して

  • 自殺した本人の事情を通じて、皆の事情が露呈する。 「私にとっても、死ぬという選択以外ないのではないか」。 ▼ひきこもっている人(その過去を持つ人)が自殺しても、統計上は単に「自殺」であり、ひきこもりの深刻さとは結び付かない。 斎藤環氏は「ひきこもりに自殺はほとんどない」とおっしゃるのだが、私が個人的に知る数例は、あくまで「異例中の異例」なのだろうか。
  • 「自殺したから、あいつの言っていたことはデタラメだったんだ」という発言も聞いた。 そう言わなければ耐えられなかったのかもしれない。 幻想は、支えられない体験のまわりで構造化される*1。 ▼耐え難い体験をどう扱うかには、各人の思想が露骨に出る。 弔いの場では、お互いが許し難く見えることがある。
  • 精神を破綻させる苦痛にみずから取り組むという trauma 的な仕事は、日常的な意識からは抑圧され、のし上がろうとする人間からは(見下されたまま)利用される。 仕事として尊重されることはあまりない。
  • ひきこもりと人の死を、自分の業績欲と虚栄心のために利用する輩。
  • 痛めつけられた人間同士の場では、正当な批判も相手を潰してしまう。 するとつぶした側が悪者になる。 何も言えなくなる。 状況がまるで変えられない。
  • 痛めつけられた人間は、ここぞというところで潰れてしまうため、結果的にそれが敵に利することになる。 「弱さによって敵に利する」ということを頻繁にやってしまう。




*1:どうすればいいかについてうかつなことを言うのは、言っている人自身が自分を支えているだけ。 ブレインストーミングはともかく、ニューサイエンス系を押し付けるのはやめてほしい。