《つながりかた》 メモ

  • 嗜癖の認め合いがオタクのつながりなので、そこには嗜癖そのものを対象化する臨床目線はない。
  • 昨今の知識人コミュニティでは、オタク的嗜癖を誇示することでPC的正当性を担保する。 オタクであることの誇示が、思想的正当性の誇示に等しい。 これは、ハイカルチャーで自分の正当性を誇示していたことと、さして変わらない。 理念の誇示を、嗜癖の誇示に置き換えただけ。(むしろ古い知識人は、理念への嗜癖をベタに誇示していた)
  • 医者や学者であっても、オタク的趣味を誇示できれば「あぁ、フレンドリーだ」と許される。 だが、まったくの間違い。 ベタな関係性のレベルで狎れ合ってるだけで、傲慢なメタ目線は温存されている(むしろ「サブカルも分かるもんね」がアリバイになり、傲慢さが補強されてしまう)。 「学問ではマジだけど、友達としてはイイ人」という、ナルシシズムの褒め合いっこ。
  • 学問のメタ目線は、それ自体がオタク的嗜癖の形をしている。 学問目線そのものの嗜癖的硬直を、お互いの関係性のあり方として対象化しなければならないのに*1嗜癖ディシプリンの押し付けで終わってしまう。 オタク的知識人は、自分の足元を分析しない。 ▼あなたは、その嗜癖によってかろうじて自分を社会参加させている。それを対象化せずに、どうして他人の社会参加を論じるのか。
  • 孤独死がマズイといっても、つながろうという主観的意図だけではどうしようもない。 そもそも、「野垂れ死にしたい」という人は多い。 ▼人間は、「繋がろうと思えば繋がれる」というふうにはできていない。 なろうと思ってもオタクになれないように、作ろうと思ったらコミュニティが作れるわけではない*2。 その点、福祉業界は全体主義を脱していない。
  • 知識人たちは、《嗜癖》こそが再帰性への最良の処方箋だと考えている*3。 まだ嗜癖を生きていない人は、何とかしてハマれるものを探すこと。 「いや、君だってすでに “日本” を生きているじゃないか」→右翼。 いっぽう左翼たちは、運動イデオロギーの依存症者でしかない。 というか、社会全体が、嗜癖的没頭以外の方法論をもっていない。 「売れる商品」や景気浮揚は、嗜癖の成功に見える。
  • 《つながりかた》が主題化されるべきであって、すでに自分たちが成功させたつながりを肩を組んで誇示すること*4が必要なのではない。 嗜癖イデオロギーの誇示とは別のつながりかたが要る。 それは暗中模索の状態にあり、むしろ生成過程にある暗中模索が共有される。
  • 各人の政治化こそが臨床的なのに、政治性を抑圧した状態で「医師の権威性で関係を調整する」ことだけが許されている。 身体医学に許された侵襲性が、精神や社会関係への介入と混同されている。




*1:なぜならそれは、《コミュニティ=つながり》のあり方そのものだから

*2:セクシュアリティも同じ。 双方が仲良くしたいと思っていても、うまくいかない・・・

*3:宮台真司のいう「ミメーシス」とは、嗜癖的転移のことだ。 また斎藤環は、「オタクになれ」と言っている。

*4:どんなに “フレンドリー” に見えても、それは宗教的威圧でしかない。