文化左翼と現場――hizzz さんの整理 【はてブ】

たいへん励みになりました。 勝手に切り貼りしてみます。

  • 左派は 「共産主義」「反戦/平和」理念運動派 と 差別/貧困解消等の社会/民衆運動派=現場援助活動 に分離し、 (略) この内、理念運動派は「文化左翼」と呼ばれました。
  • 分離してしまったデメリットは、
    • 個々現場援助活動の実態/検証のフォローアップがないまま言論を主活動とした理念派の言説が自然と抽象的なことに行き先鋭化して具体的現場を喪失していった のに対して、
    • 現場援助活動派は個々の現場により特化してしまって、社会全体との拡がりを持ち得ない状態に陥ったのでした。

 そして、80年代以降、社会学業界を襲った?解釈文芸の嵐「ポストコロニアル」「カルチュラルスタディース」があります。この流行で、統計学などを使って個々の社会的現象を地道に追尾していく実証社会学は古くさいものとして後退し、まだ先行研究が殆どなく手あかのついていない第三世界サブカルフェミニズム・性的マイノリティを取り上げ学問化するのが学問トレンドとして横行しました。 (略) しかし、そんな鬱陶しい思想/党派的なことは、こねくり回して原型をとどめない残りを未だつつき合って立ち位置保持してる連中が、勝手にやっていれば良いことです。

    • > 対立の過激化のために逃げざるを得ない、事実上の意見封殺を強いられている

 それは「運動のマチズモ」と言いわれていることです。 「大文字の政治(=歴史)こそが最重要」というヘーゲルマルクス思想に対して、「個人的なものは政治的なもの」として「history」への疑問を露わにしたフェミニズムが、指摘しました。 しかし、フェミ/マイノリティ運動とて「運動(思想学問)のマチズモ」的行動の加害者となることには、例外ではありません。
 これに加えて、 自説に事例を加味して信憑性を増したい運動/学者 と、 権威公認を得たい問題当事者 との、相互承認既得権益で閉鎖充足する他者性なき「当事者運動」の状態 について、上山和樹さんが継続的に考察しておられます。

id:hizzz さんは見事に書いてくださいましたが、「話が通じない」という無力さに苦しんでいます。


誰もかれもが、メタ言説やコスプレ的役割固定で「成功者のナルシシズム」にひたり、分析を試みた瞬間に排除される――こういうのが、どこに行っても見られる《つながり》の常態です。

かといって、「他者性を尊重しましょう」などと、イデオロギーに落とし込んだ時点ですでに《つながりかた》は固定されている。

文化左翼も現場も、無自覚な関係性のあり方をベタに生きているだけで、その実情をだぁれも対象化しない。 ▼メタ分析の提供しあいっこは、そういう形でベタに関係性を生きているわけです。 メタ言説をしていれば、目の前の関係は分析しなくてよい、という免罪符がある。 要するに、「メタ言説をやり続ける私的党派」になっている。

たとえば、差別される側が自分たちをカテゴリー化して固着した《つながり》に嗜癖していれば、それも対象化する必要がある。 ところがほとんどの左翼は、相手側の差別的右翼に加担するだけでしょう。 で、「弱者を擁護している」から、絶対的正義を手にしたことになっている。 そういう《つながりかた》が固定され、つながり方そのものへの分析は拒絶されるわけです。


メタ言説や《正義》そのものに嗜癖していて、それを対象化されると怒り出す。
彼らにあっては、嗜癖と自我が同一化しているので、嗜癖を対象化すると、自我そのものが崩壊してしまう。 これは、ひきこもるメカニズムと深く関係しています。