「マイナーになること」は、超越性の創発の話

特異化や「lignes de fuite」(漏洩線)が逃避でしかない、というのは、彼らが日本で流行した80年代以来の典型的な批判だったはずです*1


「マイナーになること」*2で考えなければならないのは、まさにメタとオブジェクトの関係でしょう。以下、私の問題意識のメモです。

    • 80年代の流行では、「スキゾ」を水平方向だけで語り、垂直方向の原理については何も語らなかった。浅田彰は快楽主義で良かったが、それは彼一人がうまくいっただけで、原理的には何のヒントにもなっていない。
    • 硬直したツリーが解体されただけで、時間性を含んだ形で縦軸を設計しなおせていない。だから神学的前提に基づいたメタ言説の乱立になる。たとえば、最適化というウソ(参照)。ひきこもる人の再復帰は、往々にして極端な権威主義化である。つまり社会化しようとした途端に、古色蒼然たる縦軸にすがる。このことは、発達障碍的な融通の利かなさに重なって見える。
    • 「当事者」という名詞形を通じて設計された議論では、縦軸の再設計に相当する《制作論》がまったくできない。これまでのマイノリティ論が全てダメなのは、名詞形で考えるため。
    • ひきこもりの問題では、主観性と関係性が同時にこじれるため、制作過程論としての縦軸問題をやらざるを得ない。
    • 現状では、全員がオブジェクトレベルに監禁されてしまう。単なるオブジェクトは自由ではない。⇒ 20世紀フランスの思想は、「縦軸をやり直す実験」ではなかったか。実験的に示された縦軸を硬直させて反復してもしょうがない。


マイナー性は名詞形と関係ない

左翼はたいてい、カテゴリとしてのマイナー性ばかりを語るのですが、グァタリにおいては、《動詞形=分析生成》としてのマイナー性が問われていると思います。

つまり、欲望のあり方がマイナーであると言っても、同性愛であるとか、ひきこもっているとか、そういう意味での少数性を称揚しているのではなくて、触媒的プロセスとしての《受動的な分析生成》を、縦軸の創発として擁護しているのではないでしょうか。私たちは状況内で追い込まれると、否応なく特異的な理解を編み出さざるを得ないはずです。

そこで生じる分析には、内的必然性がなければ強度は実現できない。つまり強度といっても消費主義ではなく、「環境内在的な分析を生きること」が問われている。
名詞形で区切られた《当事者=マイノリティ》を肯定して見せることは、「マイナーになること」とは何の関係もないと思うのですが*4



縦軸に関する新しい提案がないなら、

ドゥルーズ&グァタリは、せいぜい次のような話でしかない。

  • 多様性の承認として、「カテゴリー弱者」と消費主義を肯定し、ゆきずりの快楽(強度!)におぼれる
  • 表現の新規性だけを競う自己顕示欲
  • リゾーム的に連帯すれば現実は変えられる」と主張する左翼のバカ騒ぎ

左翼のメタ的な説教が、奇をてらって趣味に走ってるだけ、というような。
つまり「マイナーになること」は、次のようなことでしかない。

  • 「マイナーな消費をしている私」の自意識。*5

ここには分析生成(超越性の創発)はありません*6
単なるオブジェクトレベルに埋没することも、単なるメタにしがみつくことも、現実逃避です――というより、メタ言説そのものが、消費財として嗜癖対象になっている。それはメタに見えて、ちっとも縦軸になっていません*7




残留する、意思決定(decision making)の問い

縦軸そのものがやり直されるとしても、それが単独的であるなら、周囲には理解されない。
そもそも私は、独りよがりかもしれない。→ 創発された縦軸は、パフォーマティブにしか正しさを証明できない。
意思決定が、集団としての現実直視の問題であるとすると、そこではあらためて、《集団的な現実逃避》がテーマ設定できそうです。言葉を換えると、ドゥルーズ/グァタリというのは、主観性と集団について、ひたすら技法論をしていたんじゃないのか、ということなんですが。



*1:浅田彰構造と力―記号論を超えて』『逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)』の流行は1983年〜。

*2:「マイナーな存在」と名詞形にしてしまっては、別の話になるというのが以下の趣旨です。

*3:書籍『組立-作品を登る-』掲載の拙稿では、これを扱った。 cf.『SITE ZERO/ZERO SITE』のこちらの記事より:「メディウムの特性こそが諸芸術の形式に逆らう抵抗として存在する可能性があり、この可能性こそが芸術に内在する論理にほかならない」。

*4:結果的にそういう振る舞いに見えるとしても、「カテゴリーで区切った誰かを、カテゴリーゆえに肯定する」ということでは全然ない。

*5:90年代初頭ごろだったか、「ワタシだけの××」「自分だけの○○」みたいなコピーが雑誌の表紙をやたらと飾っていた記憶があります。 

*6:私はバブル時代を20歳前後で迎えていますが、主観性と関係性が、「多様性の肯定」という名の消費主義に彩られる生活環境は、本当に耐え難いものでした。これは、オタク系文化が隆盛を極める現状になじめない理由でもあります。ローカルチャーだから駄目なんじゃなくて、消費主義が耐えられない。経済学者には、「景気が良くなれば社会参加できる」と、そういう発想しかできない人が多いようですが、それは縦軸の再生産(社会参加)をめぐる原理的考察の放棄にすぎません。 佐々木隆治的にいえば、所与としての「価値による編成」の話ばっかりで、素材レベルの話が全然できない。 cf.「佐々木隆治『マルクスの物象化論〜素材の思想』について」(togetter)

*7:たとえばシステム論的に、「すべてはシステムの作動である」と言う場合、その理解を固定するだけなら、またしてもメタへの居直りとして、「自分はメタなんだ」の自意識を再生産して終わる。社会学系の論じ手が、メタ言説の再生産でナルシシズムに浸りがちなのはこのため。