最適解という、不可能な使用価値

インタビュー「安冨歩」より:

 実は私は、いわゆる「学問分野」を成り立たせているのもまた「盲点の共有」ではないかと考えています。例えば経済学の場合、最適化、つまり最適なものが選択されるというのが経済学の基本なんですが、それは稀少性、つまり物が足りないという状況が、大前提となっています。稀少性はエントロピー第二法則が大前提となります。なぜならエントロピー第二法則がなければ、永久機関がつくれるので、何でもコストなしに作れます。そうすると稀少なものなどなくなります。一方、エントロピー第二法則は、計算とか情報のやりとりにコストがかかることを要請します。そうすると、最適化という大変な計算過程を実行しようとすると、ものすごいコストがかかることになります。すると、最適化という行為自体が資源の賦存を変化させてしまい、最適化を振り出しに戻してしまいます。これでは何時まで経っても最適化は終わりません。

 以上のことから、稀少性という前提から、最適化はできない、ということが出てきます。つまり、「稀少性の下での最適化」という経済学の根本に矛盾が含まれていることになります。経済学という学問分野は、この矛盾の上に成り立っていますが、そこが盲点となって隠蔽されつつ共有されることで、分野が成立しています。この自明の理を経済学者は絶対受け入れない。経済学が崩壊してしまいますからね。



英語に「decision making」という表現がある。つまり決断は《つくる》ものであり、生産物なのだ*1決断は、適切な瞬間に成果を実現せねばならないが、いろんな意味でコストが かかりすぎて生身にはムリ*2。 厳密な決断を生み出せというのは、不可能な生産物を要求している。


最適解とは、不可能な稀少財である―― そう気づいたことで、硬直を一つ解除できた。


ひきこもる意識についての重大な到達点だと思うので、記しておく。



*1:これも今回の執筆で削り出せた視点。

*2:すぐ必要なのに調査や計算に無限の時間がかかるとか、「その分析をするには凄まじい能力が要るがここにはない」とか。時間を止めることができれば何かもう少しできるかもしれないが、本物の時間からは逃れられない。 存在と時間は、ニセモノになることができない。