正当化の態勢がすれ違う――ため息としての分析

ロー&エコの時代?」(『企業法務戦士の雑感』)より(強調は引用者)

 ベタな実務サイドの人間にしてみれば、経済学が前提としているモデルも*2、法学が前提としているモデル(のようなもの?)も*3、所詮現実とイコールではないのであって、理論的に華やかな論争が繰り広げられればられるほど、空しさを感じたりもするのであるが。
 筆者としては、とりあえず手近なミクロの世界での「法」と「経済」の対話*4を促進することに注力することにしたい。

    • *2:最近(でもない?)では心理学や政治過程論等との融合も図られているようであるが、最終的には理論的な衣をかぶせた個々の学者の「思想」の発露に過ぎないんじゃないか(笑)、というものを見かけることがままあり。
    • *3:上手く説明できないが、何となく法律家が前提としているもの(苦笑)。
    • *4:こう書くと大げさだが、要は法律をかじった人間と、経済学をかじった人間との、ちょっとした世間話から発展するささやかな対立をどうするか、という話である(脱力・・・)。どっちもまともに勉強してきた人間は少数派に過ぎない、という実態がある上に、圧倒的な力を持つ「社内政治学」の前にはなす術がない、という弱点を抱えているので、つまらない喧嘩をするより仲良くした方が良いに決まっているのだが、そうもいかないのが世の常である。

めちゃくちゃリアル。
こういう「内面の声」みたいなものに、いちばん鮮烈な制度分析を感じる。
しんどさを感じてしまった瞬間の、「ため息」というか。


それぞれのジャンルや現場が独自の「正当化の態勢」を生きていて、そのすれ違いはフォーマルな討論より、ちょっとした雑談で剥き出しになる。 「再生産の制度」(仕事の前提)がバラバラで、話がかみ合わないのだ。
各人のベタな仕事が従うフォーマットを分析し直すような、いわばあまり表に出せない、雑談レベルで「言っちゃってる」ような話――そういう部分での議論共有こそがほしい。 「インターディシプリン」とか、「マルチチュード」とかの聞こえのいいスローガンでは無理*1



*1:マルチチュード」は静態的なカテゴリーでしかない。むしろ身分に関係なく、分析というプロセスだけが所属や属性を超えさせる、その活動形のつながりこそが必要なのだ。直接ベタに肩を組み合うような連携は、お互いの自由を奪うことでしかない。