主体化と合意形成――分析プロセスの主権化

思想地図β vol.1

思想地図β vol.1



千葉雅也「インフラクリティーク序説」(pp.273-294)より*1

 ドゥルーズの哲学は、内面化しえない物体的ダメージを通して再-主体化をつづけるという課題に、一貫して取り憑かれているように思われる。 (p.284)

 《裂け目》、つまり特権的なトラウマ――内面/外面を分かつ一線を引くもの――によって組織化=セリー化された無意識から、物体的に傷だらけの――内面/外面の二元性が複数の「逃走線」によって脱構築された――不連続な無意識へ。 いわば〈多傷的 ex-polytraumatic〉な corpus*2へ。 (pp.284-5)

 マラブーは、グローバル資本主義における――外見上はドゥルーズガタリ的であるかのような――欲望の多様化・流動化が、解放的であるどころかむしろ、労働者に、ビジネスの都合次第で自分をどうにでも変えるような「柔軟性」を強いていることを批判している。 マラブーによれば、「柔軟であることは、形あるいは刻印を受けとることであり、適応できることであり、襞がつくことであって、襞をつけることではないのである。それは従順であることであって、爆発することではない」。 しかし、可塑性は、形をみずから創造する力であると共に、形を爆発させもする力であり、それゆえに、押しつけられた形に対する「不服従」の力なのである。 変化=両替(change)から利益を引き出すグローバル資本主義のただなかで、別の仕方で変わり、別のしかたで爆発する=激怒するという不服従(pp.289-290)



この議論には、以下の二つのモチーフが織り込まれている。

    • 主体化の方法はどうするか
    • 合意形成はどうするか

グァタリが「抽象機械 machine abstraite」と呼んだのは、単なる意味の連続性ではなく、「物体的に傷だらけの」、「組織化なき資料体」*3自律的構成過程でなくて何だろう。 バラバラになったものをもういちど組み直す、そのプロセスとして実現されるのが抽象機械であり、それは編成過程以外のところに、スタティックに存在することはできない*4
この特異な労働過程を 《制度分析 analyse institutionnelle》、あるいは《分裂分析 schizo-analyse》 と呼んだのであって*5、千葉氏がここで解説したような即物的バラバラさを経由しないで、また分析そのものの内的必然性(=強度)を問題にしないで、ただ「戯れていればよい」とのみやってしまうと、耽美的なシニシズムで終わってしまう*6


意識と集団をどう組織するか、その編成過程の話がないと、バラバラさを称揚して終わる*7。 あとは良心性や想像力に任せておけばおのずとうまくいくはずだ――そう思えないところで、私の理解は足踏みしている(参照)。 これは単に知的な話ではない。自分の主観を、また職場・仲間・家族をどうマネジメントするか、という具体的な話だ。


 いわば複数の〈下-関心〉*8のすれ違う線によって切り刻まれ=非全体化された〈多傷的〉な corpus としての地球=脳において、「種々の他なるもの」が「粘り強さ consistance」をもって変形しつつ「共立 consister」しうること――それが、別のエコノミーという希望なのである。 (千葉雅也「インフラクリティーク序説」,『思想地図β vol.1』p.290)

グァタリの臨床を研究する精神科医三脇康生氏も「consistance」の語に固執し、それを「分析の一貫性」と解説していた*9。 私はそれを、《分析過程の主権化》と理解した。


内発的な分節過程(内在的・当事者的な分節への没頭)は、“非常時=アイオン” として生きられる――ここで「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」というシュミットの定義*10を参照すれば、「非常時=アイオン」として生きられる分節過程は、それ自体が主権化している。――どうやらジャン・ウリは、塑形力をもつ分節プロセス自体を主権化し、それを《制度分析》と呼んでいるらしい。 そして、内発的塑形が必然性の強度を帯びるとき、そのプロセスは同時に臨床活動になっている*11

今回の千葉氏の論考では、consistance が「粘り強さ」、consister が「共立」と訳されている。 ⇒千葉氏は、「組織化なき資料体」(p.292)に、どのような塑形力を持ちこもうとしているのか。 ご自身は、どういう塑形や合意形成を生きておられるのか。 それへの答えが、タイトルである「インフラクリティーク」かもしれないが、もっと具体的な手続き論を聞きたいと思った。

    • 器官なき身体(組織化なき資料体)
    • そこで生じる内在的分節過程の主権化

この2つは、いわば分析のエコノミーの導入を目指している。そこで私が戸惑うのは、《主権化された分析過程が複数ある場合、意思決定はどうするのか?》ということだ。


関連して、東浩紀存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(pp.203-4)より:

 ガタリの「分裂分析」が、現実的でないもうひとつの超越論性の区域を提案していたことはきわめて示唆的である。それはまさに本書がいままで示唆してきた領野、「不可能なもの」が複数的に構成される、いわば複数的な超越論性の領野を指示すると思われる。
 さらに加えてより興味深いのは、ガタリがその複数的な超越論的世界を「可能的 possible」と形容し、そこでこそ社会的アジャンスマンと連結した「機械状の主体性」の思考が可能だと考えていたことである。 (略) 郵便的思考とは確率についての思考であり、同時にまたメディアの唯物論的条件から主体の構成を考える思考でもあった。 (略) 「可能的」な超越論性の領野でこそ集団的無意識や主体の社会的構成について語ることができる、と考えていたガタリの発想もまた、私たちには同じ理論的ラインを描いているように思われる。彼の政治的実践は、つねにきわめて思弁的な言説と共存していた。私たちはその共存の意味を、より真剣に受け取らねばならない。ガタリは最後の著作でつぎのように述べている。

    • ラカン的なシニフィアンは、二重の欠陥に襲われている。まずそれはあまりに抽象的すぎる。それは異種混合的な表現の素材をたやすく翻訳可能なものにし、存在論的異種混合性に欠け、存在の多様な領域を根拠なく単一化し統辞的にまとめあげる。しかしそれはまた同時に、十分に抽象的でないものでもある。何故ならそれは、諸々の自己生成的機械がもつ核の特殊性を考慮することができないからである」Félix Guattari 『Chaosmosep.61)*12

郵便的思考は否定神学的思考よりもはるかに抽象的であるがゆえに、社会的アジャンスマンを具体的にとらえることができる。

ここで東氏は、情報断片の晒される確率的条件をめぐる思考を「抽象的」と呼びつつ、グァタリの要求する抽象性を、それとは微妙に違うものとして描き出している。 そしてその両者はともに、自律的主体の社会的構成を考える上で必須だ、と。 超越論性が一つしかないのであれば、私たちはその統辞に支配されてしまう。


差異の体系と特異点が一挙に、またスタティックに与えられるのがラカンシニフィアンであり、

だとして、特異化の過程は、それ自体として称揚されるべきなのかどうか。


分析プロセスをそれ自体として主権化することにこそ、ソーカル事件の核心がある。
科学(science)の場合、プロセスに主権はない。 正当化の手続き(論理と実験)が直面するのは結論だけであり、仮に考察プロセスへの肯定があり得るとしても、《結論の正しさ》から遡及的になされる。 それも「結論をもたらす手段」として肯定されるだけであって、プロセスそれ自体に転覆的な権限があるわけではない。

ところが《主権化された分析過程》では、分節過程そのものが主権化され、結論を検証されるより前に、プロセスそのものが肯定される。それは有権者の一票が、「その意見は正しいかどうか」を検証されるより前に肯定されるようなものだ。


では、その同権をもった分析プロセスどうしで、合意形成はどうするのか? 専門性など、外在的な合意形成の手続きを認めないのであれば、場当たり的な多数決ぐらいしか残らない*14
分裂分析は、合意をめぐる制度設計を考え直すのでなければ、
難解な即興詩への同意をいきなり求め合うような馬鹿げた話にしかならない。

 バディウが批判するドゥルーズの場合は、つねにすでに、あらゆる事象がそれなりに新しい出来事であると見なされるので、すべては凡庸でありかつ特異であるということになってしまう。ゆえに特別な決断の必要がない。 (千葉雅也「インフラクリティーク序説」,『思想地図β vol.1』p.275、注6)

    • 情報断片のすべてを同権で尊重しようとするデリダは、「宙吊り」「決定不能」に留まらざるを得ない(しかしそれは、「決定不能を説き続ける」という行為に向けて決断し続けている)。
    • 分析過程(特異化のプロセス)のすべてを同権で尊重しようとするドゥルーズは、怒号の中でもみくちゃになるしかない(しかし日常は続き、それはけっきょく既存の体制を反復している)。



スピノザ経由だという《マルチチュード》概念が、凡庸な複数性をイデオロギー的に称賛しただけに見えるのも、これと関係している*15。 以下、ネグリ“帝国”をめぐる五つの講義』より:

 マルチチュードの概念は、スピノザの作品の中では最も含蓄のある言い回しで誕生しているが、スピノザは何らかの秩序の中に身をおく特異性の多様性(多数性)という意味合いをその言葉に込めている。 (略) アリストテレス的カテゴリーに照らしてみると、マルチチュードは、外部から存在を形成して活動すべきものに比べると形式的な原理も有効な原理も目的論的な原理ももたず、ただ多様的(多数的)・物質的な存在であった。しかしスピノザにあってはマルチチュードの概念は、外部的因果過程の観念が不在である、その程度に応じて固有の意味を担っている。スピノザは頑固なまで内在論的であり唯物論的であることによって、現実に対するいかなる外部的原因の可能性をも否定する。因果性に関わる原理を確立する神は存在しない。外部的に指示を与える潜勢力の側からの創造などは存在せず、またいかなる最終目的性も形成されない。言い換えれば、物質は神性的であり、創造は物質にとっての内部的なプロセスである。多様性(多数性)の組織化の問題、民主主義の問題を提起するとき、スピノザは内在論的な舞台の上でそれらを提起する。つまり、マルチチュードは直接的にどのように組織されうるのか(というより、実際にどのように組織されるのか)が問われる。この見方からすると、マルチチュードは以前にはなかったものを全てそれ自身で表現する概念である。 動機(causa)は、行為、プロセスになり、民主主義とは、マルチチュードが(特異性の相互作用を通じて)、共同意思、つまり外部を持たないまったく自律したそれゆえわれわれが絶対意思と呼ぶ共同意思 を表現するような形態である(pp.144-145)

    • ここでの「絶対意思」はおそらくルソーの一般意思に、さらに契約思想の全体に対立させられているのだろう。

 マルチチュードの概念が新しい形態の労働組織や社会と対比され始める瞬間に、つまりマルチチュードの概念が、技術的・政治的な階級構成の形で分析される時、ほかでもなくその時、(16世紀から18世紀に至る共和主義的潮流に起きたように)単に政治的用語ではなく、まさに資本主義の、社会の、――これがさらに重要であるが――主観性の発展の新たなる局面に関する物質的・存在論的な標識としてマルチチュードの概念を再構築することが可能なのである。ポスト近代の局面では、マルチチュードの概念は、非物質的労働を表現するマルチチュードの能力と、非物質的労働を通して(活動を通して)生産を自己再領有できる潜勢力とによって規定される特異性の存在と結びついている。ポスト近代の労働力はマルチチュードの形態の中に現れると言うことができよう(従って、ポストモダン的生産の政治形態とは、絶対的民主主義の形態である)。 ネグリ“帝国”をめぐる五つの講義』p.149)

多様性の直接的肯定を寿ことほいでいるのはわかるが、
どうしてそれが手続きもなしに合意形成を迎えるのか。
意味のセリーに回収されない最下層と、そこから内発的に立ち上がる分節過程の多様性を肯定したはずなのに、その肯定のそぶりがまたしてもメタ言説でしかないゆえに、一党独裁的な全体主義が回帰する*16


多様性を《無数の存在》それ自体として肯定する言説*17、ディテールを生産する分析の自律性 consistance を踏みにじり、メタ正義の全体性を押しつける。 つまりそれは、分析プロセスの主権を侵害する。 この矛盾こそが、左翼的ユートピア主義の核心にある*18

 概括し概念化して言えば、マルチチュードを語る場合、われわれは基本的に三つのことを主張している。社会学的および社会に関する哲学的観点から、なによりもまず、集合として、主観性の、つまり特異性の多様性(多数性)としてのマルチチュードについて語るのだ。第二番目に、非労働者的社会階級としてのマルチチュードを語ることになる(この場合、その典型は、フォーディズムからポストフォーディズムへの、物質的労働のヘゲモニーから非物質的労働のヘゲモニーへの移行における労働の移行の経験である)。最後に第三番目に、マルチチュードを語る場合、大衆の中で押しつぶされずに、自律的、独立的、知的な展開の能力がある多様性(多数性)について言及することにしよう。労働の潜勢力の展開によって、労働力は、労働手段と協働の配置の再領有化を通して、隷属と主権の弁証法に終止符を打つことができるようになる。この観点からこのテーマを政治的用語に翻訳すると、民主主義的な潜勢力としてのマルチチュードの仮説を提出することができるであろう。というのもマルチチュードは、自由と労働を一緒にしそれらを〈共同的なもの〉の生産の中で結合させるからである。これらの用語で語られれば、政治的なものと社会的なもの、生産性と〈生〉のエチカのあらゆる区別がなくなることは明らかである。このように定義されたマルチチュードは、開かれた動態的な構成的な概念として現前する。 ネグリ“帝国”をめぐる五つの講義』, pp.150-151)

私はこの話を、今回の千葉氏による『意味の論理学』読解と重ねている。


結果的な意味のセリーだけに注目し、プロセスを無視する近代の語りでは、合意形成は論理と実験の手続きが担う。しかし、プロセスがプロセスのままで構成的権力になった場合、それはたしかに現状を根底から変えてしまえるだろうが、その変革運動は、どうやってみずからに制度的承認をもたらすのか。 ⇒分析プロセスの主権化において、制度的採用とその解体の反復(政治過程そのもの)は、どういうものであり得るのか?

私はここでこそ、國分功一郎氏が提出したという「スピノザの方法」が気になっている(参照)。

 「規範は行為そのものである」
 「反省的意識」は「方法が実現された際の状態を指している」

分析プロセスをそれ自体として主権化する分裂分析では、語りがある方法を実現しつつあることに重点が置かれる。 「方法について語った」場合、普通は「論題としての方法」だけが検証されるが、分裂分析では、その「語っている」おのれのプロセスがすでにパフォーマティブな実現過程になっている
ドゥルーズスピノザについて「内在」「反法制主義」を語るのはこの意味だと思うが、では「諸力が、そのままで社会化の要素である」として*19方法と一致したプロセス同士は、お互いの間でどう意見統一を図るのか。
ネグリの語りは、出発点と帰結が矛盾するユートピア主義であり、それは結局のところ、メタ的アリバイで「プロセスの主権」を弾圧するしかないように見える。




*1:以下、このエントリ内でなされる引用部分の強調は、すべて引用者による。

*2:「本稿では、以下、データベースという言葉を、corpus という言葉で代えることにしよう。 corpus とは、身体でありモノであり資料体コーパスである。 情報の子音的肉片から成るデータベースである」(千葉雅也「インフラクリティーク序説」,『思想地図β vol.1』p.282)。

*3:思想地図β vol.1』p.292

*4:私が表三郎「労働と所有の分離」(参照)および三脇康生の仕事(参照)から得たのはこういう理解であり、それがグァタリ/ドゥルーズへの入り口になった。 1980年代の私は、ポストモダン系の邦訳にチャレンジしたものの、「これは断片を称揚するだけのナルシシズムだ」と断じて終わっていた(cf.『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.238)。

*5:三脇康生「ウリはなぜガタリの分裂分析を拒絶するのか」(『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』pp.273-286)によると、ウリ的な「制度分析」とグァタリ的な「分裂分析」には、論争的な緊張関係があるらしい。

*6:意味のセリーと即物的断片が、並立的に放置されて終わる。――思想上の立場を分ける本当の焦点は、これらを再編するときの方針にある。

*7:「バラバラでいいじゃないか」とは言えない。それは主観としても集団としても、全体主義的な抑圧で終わる。

*8:《情報-神経系の有限性=事故性によって取捨されてしまう情報断片の群れは、偶発的なつながりを塑形してしまう。それが〈多傷的〉な corpus の、滑稽に怠惰なとでも言うべき破壊可能性なのである。そこで、滑稽な怠惰さによって検索してみた――そしてしなかったりしてみた――言葉やイメージや音の断片は、別の断片への物体的誤配によって「下-意味」のつながりをなす。》(『思想地図β vol.1』p.292)

*9:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.226

*10:政治神学』p.11

*11:“癒し” とかの抑圧的抱擁ではなく、宙吊りの場所での、容赦なき分節が要求されている。 もんだいは、その “容赦なさ” をどう根拠づけるか。 単にプロセスが主権者として肯定されるだけなら、独りよがりであっても、「容赦なき強度」を主張するだろう。 私たちの親密圏は、そうやってこじれる。

*12:邦訳では『カオスモーズ』p.65。 引用:「ラカンシニフィアンは二重の欠如にとらわれていることになります。つまりラカンシニフィアンは、相互に異質な表現の質料をあっさりと翻訳可能なものに変えてしまった点が抽象的すぎるし、存在論的異質発生をとらえそこない、これといった理由もないまま不在〔※おそらく「存在」のタイポ〕のさまざまな領域を画一化し、統辞構造にからめとられるあたりも異様である一方、同時に機械性オートポイエーシスの核が示す特殊性を説明することができない点では抽象性が足りないと言えるわけですが、」 ▼原文A cet égard, le signifiant lacanien est frappé d'une double carence : il est trop abstrait en ce qu'il traductibilise à bon compte les matières d'expression hétérogenèse ontologique, il uniformise et syntaxise gratuitement les diverses régions de l'être, et, tout à la fois, il n'est pas assez abstrait parce qu'il est incapable de rendre compte de la spécificité de ces noyaux machiniques autopoïétiques」(p.61)

*13:2人の違いはまた別にあるとしても

*14:上野千鶴子的な当事者主権では、主権と内容の不当なショートが起きる(「当事者が言っているから正しい」)。 それは分析プロセスの主権化ですらなく、名詞形で名指された「当事者」が転覆的な権限を握ってしまう(参照)。 cf.『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

*15:誰かがマルチチュードに「有象無象」という訳を与えていたが、適切に思える

*16:日本語でなされるグァタリ/ネグリへの言及は、その多くが個人崇拝でしかなく、偶像をネタに自分たちの一党独裁を主張しているようにしか見えない。

*17:たとえばそれは、「生の無条件の肯定」や、「ひきこもりの全面肯定」として語られる(参照)。

*18:メタ正義を体現するおのれ自身は、そのつどの分節による賭けの試練も経ず、常にすでに正しいポジションにあるわけだ。

*19:いずれもネグリ野生のアノマリー――スピノザにおける力能と権力』への、ドゥルーズによる序文より