参加の実態分析?

概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』pp.262-5、酒井泰斗(id:contractio)氏による「おわりに」より(強調は原文)

 社会的秩序は、そのもとで暮らす人々が実際に規範を運用することをつうじて作り上げられているのだから、その運用のあり方を記述することは社会学的研究なのである。 (略) 本書の分析が、行為や活動や経験における理解可能性を獲得するために人びとが実際に用いている概念を手がかりにして行われていることを示すためには、私たちとしては、「概念分析」という言葉を手放すわけにもいかなかったのである。だからもう一度強調しておきたい。「社会的実践の概念分析」は「規範の運用技能・運用方法の記述的解明」に照準を合わせている。

 「概念分析」は、理論装置や説明図式を与えるものではない。したがって、こうした研究は「理論の適用(と検証)」という形をとることができないし、まとまった議論を前もって用意しておくというわけにはいかないのである。(そうではなく、こうした研究においては、示されるべきことは、実際の個別の実践に即した分析のなかで例示される。だから、検討のほうも、各章が「規範の運用方法の適切な例示となっているかどうか、それが適切な記述的解明を受けているかどうか」という観点から行われる必要がある。)

 社会科学の歴史は倫理学・道徳哲学・道徳科学の解体あるいは変容の歴史である。そしてまた現在においても、社会について語ることは、なんらかの仕方で、規範的・道徳的な含意を帯びざるを得ない(し、しばしばそう求められてもいる。また既存の社会諸科学がまったくそれを避けてきたわけでもない。たとえば20世紀には──前半のメタ倫理の流行のあとで後半には──規範理論の構築が流行しもした)。こうした、社会諸科学史に登場してきた様々なスタンスそれぞれの意義は私にも分かる。しかし、社会科学の道徳・規範(そして倫理学的主題)との付き合い方はこれらとは別様でもありうるのではないか。もっと言えば、社会学ならではのやり方というのがありうるのではないか……。



この本の議論が何をやろうとしているのか、その趣旨の説明をされているのですが、それをあくまで「社会学」と呼びなおされているのが印象的でした*1
アカデミックな領域での射程は私には読み切れませんが、専門概念のベタな使用ではなく、概念の使われ方そのものを対象化する(その作業において、論者じしんが参加とつながりを生きる)取り組みは、《社会参加臨床の基礎研究》という側面を持たないでしょうか。 ▼重要なのは、それが論者自身にも臨床上の恩恵をもたらすことです。「私はこの議論事業において、臨床的趣旨の対象者ではない」というふるまいを、社会参加臨床はどうしてもできない。
たとえば数学みたいに、議論事業が臨床上の趣旨を含まないものと*2、論じる事業そのものが臨床趣旨を内在させているものと。 私はその間で考えています。



*1:「概念分析」事業は、社会学というフォーマットを守りながら、みずからの社会参加を実現させている。

*2:「数学をすることが慰安になる」人はいても、議論内在的には、「論者じしんの健康」は主題ではありえない。