「ふつうの精神病」の周辺

ジャック=アラン・ミレール*1による、「ふつうの精神病(psychose ordinaire)」という議論をめぐって。*2

座談会 「来るべき精神分析のために」 十川幸司×原和之×立木康介 (『思想 2010年 06月号 [雑誌]』pp.8-59)*3

立木康介氏の発言(pp.9-11)より:

 ところが、1990年代後半になると状況が変わってきて、フランスの分析家たちも自分たちが臨床で相手にしている患者さんが今までと違ってきているのではないか、という感触を持ち始める。それがはっきりとした形で出てきたのが、1998年に ECFÉcole de la Cause Freudienneフロイト大義派)の大きな会合で精神病の問題が扱われた時でした。ジャック=アラン・ミレールが「普通の精神病(psychose ordinaire)」というタームを掲げて、それがまたたくまに ECF の中で広まり、今では普通名詞のように、あるいは診断名のように使われています。
 明らかに神経症ではない構造をもつ主体なのに、はっきりと発症した精神病にも見えない。シュレバーのようなパラノイアや古典的な統合失調症分裂病)のタイプにもあてはまらない緩い形、精神病の状態がいわば「普通に」生きられているように見える主体の問題は、妄想や幻覚といった具体的な病理現象というより、おうおうにして、ある種の社会的不適応、つまり社会の中に場所をもてないという形で現れてきます。こうした患者さんに分析家が接する機会が増え、たちまち臨床の前景を占めるようになってきた。20世紀末から今日まで、それがずっと続いています。実は、ECF では今世紀初頭から、制度の中での精神分析の実践を見直そうという動きが始まったのですが、それと呼応し合う形で現在の臨床の中心に「普通の精神病」が躍り出てきたというのは興味深いですね。非定型とは言わないまでも、古典的な神経症と精神病の構造的な差異を揺るがすような現象だとは思いますが、「普通の精神病」はポスト神経症時代の臨床の中心的な概念になってきたと思います。
 ただ、フランス全体、ラカン派全体の状況で言うと、ECF が「普通の精神病」という形でポスト神経症時代の臨床の中心に精神病をもってくるのに対して、シャルル・メルマンらの ALIAssociation Lacanienne International=国際ラカン協会)は「倒錯」という概念を前面に出してきました。 最近では、ジャン=ピエール・ルブランという分析家がミレールの二番煎じで『普通の倒錯』(Jean-Pierre Lebrun, "La Perversion ordinaire")という本を出版した。彼らは心的経済全体が以前と同じようには動いておらず、抑圧の経済から享楽中心の、享楽を見せびらかすような経済へ移った、という議論をしています。このように、ポスト神経症時代の主体の支配的な構造を精神病と見るか倒錯と見るかによって、フランスの二大ラカン学派の主張が分かれているのは注目に値します。
 もう少し事実を挙げておくと、先ほど制度の中での分析が見直されていると言いましたが、そこでは、当然のことながら、古典的な分析の進め方を見直さざるをえません。いや、これは単に制度の中での精神分析的実践だけでなく、いわゆる「純粋精神分析」、つまり精神分析家の再生産を行なう分析のほうにもあてはまることです。 ECF では、症状の「意味」を読み取る従来のセマンティックな作業から、プラグマティックな作業に、つまり、語用論的とは言いませんが、「症状使用論的」な作業に分析のあり方が変わってきたという認識が今では一般的です。症状の「意味」よりも、症状が現実界あるいは享楽との関係でどういう役割を果たしているかという点、つまり症状の機能が問題になるわけですね。

    • セマンティック semantic 意味論的な cf.「意味論
    • プラグマティック pragmatic 実用本位の、実際的な、語用論的な cf.「プラグマティズム」、「語用論



ラカンの生涯を賭けた事業は、「シニフィアンの最小限の支柱」を見つけることだった――それがミレールの整理だ(参照)。
グァタリが、ラカン的な病理学/診断学を批判したというなら(参照)、その新しい記号論に基づく病理学/診断学は、どういうものであり得るだろう。あるいはグァタリの批判は、あくまで技法のレベルにあって、診断学には介入していないと見るべきだろうか――ここで原理的な整理のできた仕事を、私はまだ知らない*4
ラカンは悪しき治療主義であり、それに引きかえグァタリは、疎外への批判を忘れない政治運動家だった」みたいな言い方だけでは、前時代的なオルグごっこで終わってしまう*5。 必要なのは、社会的疎外を糾弾して悦に入ることではなく*6精神的疎外と社会的疎外に同時に取り組める、内在的な方法論だ。

    • たとえば、菅野盾樹臨床的眼ざしの誕生――医療の記号論を読んだ。 エクスパートシステムを「記号過程の創発」と見るとしても、あらかじめ「医師/患者」を切り分けてはならない。工夫された創発を営むことが、内側から生きられた臨床効果を含み得るという視点が要る。単に「記号過程の創発」というだけでは、間違った臨床とすぐれた臨床を見分けることができない。学知を生きるおのれは、すでに臨床事業の共犯者であるという自覚が要る。(「アカデミズムそのものを治療しなければならない」というのは、記号過程に関する問題意識といえる。)




I.R.S.−ジャック・ラカン研究』第7号(2009年10月)掲載、 立木康介 「ナタリー・ジョーデルの報告への序文」より:

 「ふつうの精神病」の構造論も、治療論も、1958年のラカンの精神病概念、すなわち「父の名の排除」によって条件づけられ、「一父との出会い」を発症の契機とする精神病の概念に沿って構築することはできない。少なくとも、それをそのまま「ふつうの精神病」に当てはめることはできない。ここで参照されるのは、むしろ、晩年のラカンが注目したジョイスのモデル、すなわち、ボロメオ結びとサントームのモデルである。
 破綻してしまった RSI の結びを、いかなる症状によって修正するか。つまり、RSI の分離や結び違いを修正するどのような症状を発明する(inventer)か。精神病の主体に、したがって精神病の臨床に課せられるこの問いが、今日のラカン派応用精神分析の前面を占めている。このような方向性が、古典的な精神分析の道筋と明確に異なっていることはいうまでもない。フロイト以来の、症状の「解読」を軸とする意味論的、解釈学的手続きにたいして、症状の意味よりもその機能(結びの破綻を繕うものとしての)のほうを重視するこの新たな治療論を、ミレールは「プラグマティック」(この語は通常「語用論」と訳されるが、私たちがたどっている文脈をふまえるなら「症状用論」とでも訳したいところだ)と呼ぶ。 (p.112)

本稿で紹介されている、

    • ラカンオリエンテーションによる応用精神分析にかんする研究の国際プログラム」(Programme International de recherches sur la Psychanalyse appliquée d'Orientation Lacanienne、略して「PIPOL」)

の展開が興味深い。
同号掲載のナタリー・ジョーデル(Nathalie Jaudel)の論考は、「ラカン派応用精神分析の現在――施設=制度における精神病臨床」と題されており*7、フランス語の原題は「Actualité de la psychanalyse appliquée lacanienne - Clinique de la psychose dans l'institution」。 なまなましい症例研究をつうじて、応用精神分析や「ふつうの精神病」をめぐる概念運用の様子がうかがえる。


ラカン派の「応用精神分析(psychanalyse appliquée)」と、ウリ/グァタリ的な制度論の関係については、立木康介氏による次の2本の論考を参照。 いずれにも「PIPOL」への言及がある。




精神科医 schizoophrenie氏による、「ふつうの精神病」の紹介」(2011年8月、togetter)

 並外れた精神病と普通の精神病との違いは,前者が幻覚妄想によって発病(déclenchement)するのに対して,後者は発病するかわりに,様々な社会的紐帯や自らの身体から脱接続(débranchement)するという点にある.この脱接続という外部性をミレールは3つの様態で提示する.

 「普通の精神病」を「ひきこもり」との関係から論じた文献をひとつご紹介.阿部又一郎,小林芳樹:フランスにおけるHikikomori概念. 精神科治療学,25:1263-1268,2010. http://bit.ly/q2zZbV

『精神科治療学』、地元の図書館にない orz



*1:Jacques-Alain Miller精神分析ジャック・ラカン(Jacques Lacan)の娘婿であり、ラカンの遺した仕事を管理する法律上の相続人。 スイユ社から出ているセミネールのシリーズは、ミレールの編集による。

*2:本エントリ内での強調は、すべて引用者による。

*3:ここで引用した箇所に限らず、この座談会は全編が興味深いです。 出版社に問い合わせたところ、まだわずかに在庫があるそうですし(参照)、図書館にもよく置いてあります。

*4:文献的に思い当ることがあったら、ご教示いただけると嬉しいです。

*5:党派的イデオロギーを強要するばかりで、おのれ自身がどのような《つながり方》を固着させているかをまったく見ない。

*6:フーコーの研究者にも、こういうニュアンスを感じることがある。

*7:2007年8月4日、京都大学で行なわれた講演の記録。

*8:論文として言及されているのは、Jean Oury, "Petit discours critique sur une utilisation possible de l'École freudienne de Paris", in: "Scilicet", 2/3, Seuil, Paris, 1970, pp.46-49