「実存の謎−他者尊重」 / 「構造的現実−介入的施策」


「確率の問題」 → 「構造の問題」

斎藤環氏は、「『ひきこもり』がもたらす構造的悲劇」と題する短い論考*1で、先日起こった東大阪市の両親殺害事件に触れ、「これまでのひきこもりの事件は、確率的に起きた異常事態*2とも見なせるが、今回の事件は、ひきこもりが存在する状況の構造から出現した――つまり条件さえそろえば繰り返される可能性が高い――事件ではないか」(大意)と指摘している。
「ひきこもりおよびその両親はどんどん高齢化・貧困化し、今後は社会問題として別のフェーズ――餓死・ホームレス・自殺など――へ移行する」と考え、これからは引きこもり問題を語るにも「人文的・主観的」方法のみならず「社会的・客観的」方法も採用すべきだ、ということなら、諸手を上げて賛成したい。



「構造」ではなく、「謎に対する寛容性」?

ところが斎藤氏は、せっかく取り上げた≪構造≫の話には向かわず、ニートや引きこもりに共通する≪不可解さ≫を「心理学化=共感化」するのはまずい、として次のように述べる。

 他者性の尊重は、むしろ「他者の不透明性」あるいは「他者の得体の知れなさ」を前提として確保されなければならない。 これは理解や解釈を放棄せよ、という意味ではない。 そんなことは単に不可能だ。 分析や理解は、世俗的な誤解を予防するためになされるのは当然としても、最終的には理解不可能なポイントを探り当て、その手前で立ちすくむためにこそなされなければならない。

 理解が深まるほど謎も深まる。 他者とはそのように汲み尽くせない存在であり、その意味では自分自身にも他者はいる。 そうした他者に対して寛容性を維持することが、今ほど難しい時代はないのかもしれない。 いたるところで過剰な情報が「謎」を隠蔽し、他者を透明化してしまうからだ。




これに対し、社会学を研究されているという id:hidex7777 さんが疑義を提出されている

 まず1点目として、「他者!謎!すごい!」のであれば、それを前提として可能な社会的配備*3を検討する方向に行かざるを得ず、立ちすくんでないで最初からそれを(そのハナシを)やればよい。

 2点目、上記のような「構造的」な背景が明らかになっている以上、いまさらなんで寛容性のハナシを持ち出す必要があるのか。 「社会の危険」の経済的人口学的条件がわかっていて、なにがいまさら「謎」なのか、と(引きこもりの「内面」が謎?あほかと。じゃあ引きこもってない奴の内面は謎じゃないのかいと)。 在るのは構造的現実だけであり、可能なのは構造介入的な「社会政策」だけだ。






*1:雑誌『中央公論』最新刊(12月号)掲載

*2:ひきこもり当事者のほうが一般よりも犯罪発生率は低い、というデータは先日示しました

*3:とうぜん「心理学の専門家システム」「臨床家」の配備のような「社会的」施策を含む。 【原文にあった注をそのまま引用】