分析の政治

承前  拙エントリについて、志紀島啓さんからレスポンスを頂きました。 ありがとうございます。
しかし、私からの言及には、ほとんど触れていただけない形でした。残念です。


この完全なすれ違いについて、単なる相対主義を言う気にはなれません。趣味的な哲学談義ではなく、グァタリの臨床に興味を向ける立場からすれば、《生産過程》 に照準する私の読みは、さほど極端なものではないはずです。
あらためてお返事を何度か書きなおす中で、けっきょく何をやらなければならないか、自分で はっきりしたところがありました。その肝腎の部分については、発表媒体を替えなければならないと、あらためて感じています。
以下は部分的なお返事ですが(少しだけ質問を返させてください)、これに懲りず、対話の試みを続けさせていただければ幸いです。

ここでおっしゃる「他なるもの」というのは、たとえばラカンなどの特殊な意味を込めていますか? 
グァタリの《特異化》は、ウリ経由の制度概念との関係もあり、「その場で新たにやり直される、特異的な生産過程」というニュアンスは、外せないと思います。固定された生産様式としての制度が単に踏襲されるのではなく、別の分節が始まってしまう・・・というモチーフです(参照)。 ですので内在的と言っても、「単に制度の外部に出ることはあり得ない」という、ウリやメルロ=ポンティの制度概念を経由した理解になります*1


「我々はみな小集団である(nous sommes tous des groupuscules)」というグァタリの議論を日本語に対応させると、党派性あたりの言葉になると思うのですが(参照)。 主観性と中間集団を同時に扱うグァタリの議論は、なかなかうまくいかない社会参加に取り組もうとするとき、本当にありがたい参照対象になります。


「責任、主体、法、社会といった概念」については、まさにこうした概念そのものが、多くの制度的前提にまみれていることを《内側から》論じたのがグァタリだと思っているのですが・・・。 ドゥルーズによるグァタリ論には、次のようなくだりが登場します(参照)。

 トスケイエスジャン・ウリとともに姿を現わした「制度論的精神療法(psychothérapie institutionnelle)」運動のなかで、精神医療の第三期がはじまってもいた。すなわち、法や契約をこえたモデルとしての制度(l'institution comme modèle, au-delà de la loi et du contrat)である。

 「制度論的精神療法」のなかには、サン=ジュストを精神医療の文脈でとらえるという着想が含まれている。つまりサン=ジュストが共和国体制を、法ではなく(また契約関係でもなく)て、多くの制度によって〔par beaucoup d'institutions et peu de lois (peu de relations contractuelles aussi)〕定義したという意味において、サン=ジュストからの示唆を受けているということである。

こうした制度論を踏まえずに「ドゥルーズガタリ」とか「スキゾ」とか言っても、なにも論じたことにならないと思うのです。



生物学重視という集団的な言説傾向、その政治性をこそ、分析してみせる必要を感じます。
グァタリが政治的と言っても、単に資本制に抗議するだけなら、わざわざ「グァタリ」という名前を持ち出すまでもない。


グァタリのいう「特異化」は、状況の傾向性がはまりこむ制度的反復を分節してみせる作業を含むと思います*2。 私が「必然性をともなった内在的分節」とか言ってるのはそういう話です。


私は基本的に、主観性や集団をうまく生きられない失調の苦しさを主題にしているので*3、たとえば「生命」という言葉が強調されることの強いイデオロギー性が気になります。言説そのものの集団的傾向を考え直すことが、いま必要な分析ではないでしょうか。


単に抗議行動がどうというより、「知的であるとはどういうことか」という、分析事業のスタイルそのものが、すでに政治を孕むと思います。 どのような分析スタイルを採用するかに、まさに《分析の政治》と呼ぶべきものがあります。
意気揚々と示される分析プランは、すでに大事な選択を終えたあとの姿であり、結論以前に、「そういう知的方針にはまり込んでいていいのか」を、考え直す必要があります。グァタリに政治性があり得るとしたら、そういう話だと思います。



*1:グァタリは粉川哲夫によるインタビューで、メルロ=ポンティから影響を受けたことを語っている。 音声ファイル

*2:源流には、トスケイエスジャン・ウリの「制度分析」があると思います。

*3:その失調がなければ、特異的な論点形成をする必要も、必然性もないでしょう。