『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』p.133、三脇康生「精神医療の再政治化のために」より(強調は引用者):
従来、スキゾ分析とか分裂症分析などと訳されていた schizoanalyse という言葉も、今回は「分裂性分析」と訳しかえた。 従来の訳では、分裂病者の分析という誤解を生みやすいからである。 分析されるのは、柔軟に制度を打ち立てるための分裂度を、どれくらい臨床の現場が持っているかということなのである。 したがってわれわれはこれを、臨床の現場の分裂性の、つまりは柔軟性の分析であるとした。
schizo-analyse が、《状況の素材化》という意味での自己検証(それを許すような雰囲気作りや中仕切り的分析)をこそ意味していたらしいこと。 だとすればそれは、私がどうしても必要とする《当事者発言》のスタイルであり、日本で喧伝される「当事者」とは相いれない《当事者-化》事業となる。
不当な被害者意識や固定された弱者性に居直る “当事者” ではなく、状況のなかで具体的関係を生きた、その意味での当事者(=関係者)であり、最初から弱者性を強調する必要はない。 むしろ強者にこそ「当事者発言」が求められる*1。
ところが日本では、「当事者発言」は弱者が担うとばかり言われる。 違うだろう。 最初から特権化のイデオロギーで丸め込むのではなく、実際に生きられた状況のディテールを素材化する活動こそが尊重されねばならない。 それを最大限尊重しようとする解体的で分析発生的な方針こそが 《schizo-analyse》 ではないのか。――私はこの理解を、三脇康生による解説から立ち上げなおしている。
関係性への思い込みや、役割機能に還元された状況の硬直*2があっては、分析(無意識の生産)は封殺されたままになる。 状況や意識や役割の前提を宙吊りにし、《解体=素材化》を許されて初めて分析が生じる*3。 外部から(上から)支配されるのではなく、事後的にラカン理論をあてはめて終わるのでもなく*4、内発的な分析そのものが内側から湧いて出る、それがリゾーム的関係と「無意識の生産」の条件ではないのか。
状況の素材化という意味での当事者化が、《schizo-analyse》や無意識の生産と深くかかわることが見えてきた。