「2011年秋季研究大会および2011年春季研究大会の代替大会のお知らせ」
シンポジウム 《ガタリの哲学》
- 司会: 鈴木泉(東京大学)
- (1)論者の状況内在性(=当事者性)、 (2)臨床内在性 が私の焦点。
- 「コード化/脱コード化」というドゥルーズ=グァタリ理解は、日本語圏では80年代前半から普及していたはず。今後問われるのは、「脱コード化」が、論者自身においてどう生きられるか。
- 「哲学/臨床/政治 は、分割して論じることができる」という発想に怒るのがジャン・ウリであり、グァタリである・・・・というのが、私の興味の持ち方。 【⇒ それを自分でまとめるべきだ。】 質問するとき、私はグァタリの活動を「ソーシャルワーク」と呼んだが*5、この呼び名にまつわる文脈も無視できない(資格があれば制約も生じる)。
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- 「私は哲学者だから、グァタリの哲学面だけを論じる」と言っても、それ自体が、主体化や記号のプロセスを、具体的に生きてしまう。単にメタ的に哲学「について」話すこと、臨床「について」話すことは、原理的に無理。メタ言説も、すでにオブジェクト・レベルで、よく分からないまま生きられる。 (たとえば「文体」はすでに、disposition =オイコノミアの問題だ。)
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- 哲学と臨床を切り分けるのは、有害ですらある。思考と生において、メタとオブジェクトを分け得るような語りになってしまうから。(語りについての、当事者性=内在性の忘却)
シンポで行なった質問の整理
- 1930年生まれのグァタリは、1955年から35年以上にわたってジャン・ウリ(1924年生)との病院運営を続けたのであり*6、活動上のカップリングを言うなら、まずは「ウリ=グァタリ」であるはず。ウリを無視して「ドゥルーズ=グァタリ」を連呼するのは、伝記的事実の遠近法を間違っている。ドゥルーズとの間では、数冊の本を出しただけ。
- グァタリは、『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』(1972年)の出版をウリが喜んでくれると思っていたが*7、ウリは激怒したという。 二人はそれ以後も20年間いっしょに働いたが、つねに鋭い緊張関係にあったらしい。
- グァタリの「schizo-analyse(分裂性分析)」は、たいていはいきなり精神分析に対比されるが、むしろ直接には、ウリの「analyse institutionnelle(制度論的分析)」にぶつけられたと見るべきだろう。 そしてその「analyse institutionnelle」は、ラカン的精神分析(psych-analyse)との緊張関係にある。
今は哲学系の研究者がラカンの概念を操るのが当たり前になっているが、そもそもラカンは、「私の活動は、精神分析家に向けたものであり、精神分析家を養成するためになされる(=ミッションは教育分析)」と宣言していたはず*8。 そしてグァタリも、概念創造の現場は精神科病院だった。たとえば「ラカン vs グァタリ」という構図で論じるにしても、実務的な視点は外せない。
今回のシンポでは、「〈対象a〉はシニフィアンではない」というやり取りがあったが(千葉雅也氏⇔上野修氏)、その議論自体が業界内の業績に閉じるだけなら、やはり〈対象a〉は(少なくともその議論の内部において)シニフィアンで終わっている。 逆にいうと、シニフィアンに閉じないからこそ、この概念には知的業績に留まらない臨床意義がある(そのように機能し得る)。
「単なる並存」は、水平軸でしかない
「consistance」をめぐる千葉雅也氏と三脇康生氏(精神科医、グァタリ研究者)の解釈のちがいが、一つの焦点になる。今回のシンポでも確認されていたが、千葉氏はこの概念を、単に「並存すること」と理解し(参照)*9、むしろそこに積極的意義を見いだそうとする。 しかし三脇氏によれば、「単なる並存」は、グァタリにとって水平軸でしかない(参照)。
以下、三脇氏による書評
《フーコーと制度 〜廣瀬浩司『後期フーコー 権力から主体へ』を読む》(『思想』No.1049)より:
【グァタリからの引用⇒】 トランスヴェリサリテ(transversalité)とは、次のものとは反対のものである。
- 垂直性。例えば長・副長といった、ピラミッド構造の組織体が行なう描写に見いだされる。
- 水平性。これは病院の巣窟のような場所、興奮の収まらない患者が入れられた隔離棟(le quartier des agités)、さらには〔三脇注:薬や電気ショックで〕惚けてしまった患者が入れられた隔離棟で実現されてしまうかもしれないもので、ものと人がそこにある状況と出来るだけ折り合いをつけているような事態として実現される。
(Félix Guattari «La transversalité», in "Psychanalyse et transversalité", p.79)
場を構成する人たちが集まって「話す」ことができない場合、二つの主要な方向性のみが機能してしまう。トランスヴェルサリテは、垂直性と水平性という社会の主要な次元、あるいは放っておくとそちらへ流れていくメインの流れとは異なった次元を意味する。トランスヴェルサリテは、単に「横断」するのではなく、メインの流れ、線、方向性から「抜け道」をつくる可能性を開く。訳語としては、メジャーな既存の流れを変えるという意味で「分流性」、「抜け道性」、「横切り性」などが考えられる。廣瀬氏の本書では「斜行性」と訳されている。トランスヴェルサリテとは、行き止まりになってしまう二つの次元、すなわち単純な垂直性と水平性を乗り越えようとする次元である。グァタリは「このトランスヴェルサリテの比率は、スタッフ一人一人が簡単に分別をつけない度合いによって決まる」(ibid.,p.80)としている。簡単に分別をつけてしまえば、自分に閉じこもる。「修正は、それぞれの人の役割を構造上再定義することや、全体の方向性の練り直しのレベルで行われるべきである。病院関係者が自分自身に閉じている限り、自分自身のことしか見ようとしないのだ」(ibid.)。分別があるとは、垂直性や水平性という方向性を所与のものとみなすことである。 (p.148)
私じしんは「transversalité」を、《練り直しにおいておのれの時間軸を生成させること》と理解している(→「クロノス/アイオン」)。
「斜行性」「分流性」「横切り性」などの訳語は、もとの単語「transversalité」を尊重しているが、意味がよく分からない・・・。(この単語そのものは、ラボルド病院にいた女性がグァタリに伝えたアイデアだそうだが*10、媒体として成功していると思えない。)
- けっきょく問われているのは、
- おのれの分析のエコノミーが生きられるかどうかであり、
- 迎合的(単なる垂直)でも、虚無的放置(単なる水平)でもないような時間軸が、
- 内発的分節として生成できるかどうか。
千葉氏が言うような単なる横並びの並存は、名詞形の当事者論と親和的だが、それでは「主体化がうまくいかない」という問題を、集団との関係でまったく扱えない(鈴木泉氏の言うとおり、「hand in hand」でしかない)*11。
いま必要なのは、主体化と集団の編成を同時に論点化できる動詞形の当事者‐化であり、「transversalité」や「consistance」はその話をしている――私はそう思って解読を続けている。
江川隆男氏の発表 「脱領土性並行論」
学会が終わってから数日間、ずっと江川氏のレジュメを読んでいた。
まだよく分からないが、「これは何か決定的なことを話しているのではないか」と感じてしまっている。
グァタリの「4つの存在論的機能素」を詳細に解説する試みに、初めて出逢った。
*1:シンポはすごい人で、主催側は資料を刷り増しされていました。
*2:生から自由連想的性質を排除しようとするところに強迫神経症がある。 参照:《強迫神経症と、「私は考える、ゆえに私は存在する」》(togetter)
*3:落とし所の分かった「反体制」は、必ずしも「脱コード化」ではないと思うのです。 往々にして、反体制派のコードを反復することでしかないので。
*4:=「社会的に生きられた生」
*5:「記号はつねに固定するものだが、グァタリの記号論は流れ」という江川隆男氏のご発言(大意)が、活動形の「ワーク」に関わりそうです。
*6:ウリがラボルド病院を創設したのは1953年(『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.290 の年表より)。 三脇康生らの取材によれば、グァタリは10代のころ、ジャン・ウリの実兄であるフェルナン・ウリとまず知り合っている。グァタリもウリ兄弟も、当初はラカン理論に没頭していた。
*7:ラボルド病院副院長のダニエル・ルロの証言(『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』p.166)
*8:そうした趣旨の発言は、邦訳だけでも何箇所か見つかります。
*9:鈴木泉氏はシンポで、グァタリの主体化論は「hand in hand でしかない」と否定的におっしゃっていました(大意)。 私も90年代まではまさにそのように理解してバカにしていたのですが、今はむしろグァタリの主体化論こそが興味の入り口になっています。
*10:このエピソードをどこで読んだか失念。どこだっけ・・・
*11:「主観性の生産(production de subjectivité)」というグァタリのモチーフは、孤立して放置されてしまう。