• コミュニティがあって、それが紛争で駄目になるのではなく、紛争処理のスタイルが、コミュニティとして生きられる*1。 直接的な利害対立というより、「処理スタイルの違い」が、対立の火種になる。
  • 大昔にはバラバラだった紛争処理が、司法システムで一元化された。 価値が多元化するポストモダンでは、紛争処理のしかた自体が複数化する*2。 それは、単なる先祖がえりではあり得ない。
  • 司法のバックには国家権力があるが、自治的な紛争処理では、自前の組織暴力が必要になる。 それは法治国家では、非合法になってしまう。
  • すでに生きられているコミュニティは、決まった紛争処理の体質をもっている。 既存の知識人は、それを対象化しない。 メタ言説に打ち興じることは、社会参加臨床に自覚的な態度と言えない。
  • 「フェアな分析」は、自分の所属する部分社会を裏切ることがある。




*1:処理スタイルを共有した「プロセス」以外に、コミュニティはない。 ▼既存の対人支援の周辺には、「支援対象者の差別的特権化」と、「お互いのナルシシズムを守り合う」以外の作法がない。 そこに異議を申し立てると、コミュニティ自体にいられなくなる。

*2:同じシステムにおいて解釈が複数化するというより、紛争処理の方法論自体が複数化してしまう。 その方がより深刻な断片化だし、それがつまり、コミュニティが複数化するということ。