専門教育が、「処理力」と「編集力」の構成を変えるべき。

もと和田中学校長の藤原和博氏と、10月の神戸市長選に立候補予定の樫野孝人氏の合同講演会を聴きに行った(参照)。 樫野氏はリクルート時代の藤原氏の後輩で、選挙に向けてタッグを組むとのこと。


藤原氏が板書した以下の表で、さいきん考えていたことを少し整理できた。
20世紀 成長社会21世紀 成熟社会
復興の時代文化の時代
みんな一緒それぞれ一人一人
情報の処理力情報の編集力
目的=正解答えはない。 納得解。
ジグソーパズルレゴブロック

以下は、講演を聴きながら考えていたこと。



これまではコミュニティが機能したから、その枠内で情報処理をしていれば仕事をしたことになった。 そこで医師や弁護士など、ルーチン化した専門職に高い地位と給与が与えられた。

社会の多様化・流動化が進むと、単なる「情報処理」では対応できない。 今後必要なのは、バラバラな人や情報をまとめ上げ、自分でコーディネートする「編集力」。 ところが、教育体制がその変化に対応していない。


統計によると、日本の変死体は35年前の3倍に増えている(参照)。 これは、消費社会爛熟で個々人がバラバラになったのに、対人支援があいかわらず「情報処理」偏重であるために、関係のすき間に人がこぼれ落ちて死んでいる、ということだろう。 メタ的な学問や技術システムは進んでも、人はどんどん孤立している*1

孤独死問題に対応するには、たとえば Social Worker にも身体医学や法律の知識が必要なはず。 ところがワーカーの養成プログラムにはそういう訓練がなく、実務でも判断が許されていない。 かんじんな情報処理は医師や弁護士に頼るしかない*2。――やるべき仕事から遡って専門教育が設計されるのではなく、「医師」「弁護士」といった役職フェティシズムがまずあって、あとは専門職のルーチンばかり。 「20世紀の専門家体制」を、いまだにやっている。


社会関係をコーディネートするには、様々なジャンルにわたる高い教養と編集能力が必要だが、Social Worker の社会的地位は著しく低く、お金にもならない*3。――マニアックな情報処理ばかりの医師や法律家と、その反対に、専門的判断をさせてもらえない現場コーディネーター。 苦痛や問題の機序から専門性が構成されるのではなく、相談者が専門家システムに合わせて相談内容を決めなければならない*4。 起こっている事柄そのものよりも、「自分は○○なんだ」という役職ナルシシズムが優先されている(患者やクライエントの固定された役割がそれに対応する)。

社会参加臨床を考える上では、情報処理に偏った学問ディシプリンは、それ自体で自閉しても役に立たない*5。 むしろ、関係性やコミュニティを対象化する、social work 的な分析や専門性が必要になる*6。――子どもへの教育だけでなく、専門教育じしんが、《編集力》を核に再編成されるべきだ。 そうでないと、それは単にマニアックな「情報処理」でしかない。 そんなものは「専門性」ではない*7



*1:藤原和博氏の紹介された和田中学の取り組みは、素晴らしいものでした。 これは結果的に、杉並区の変死体を減らしているのではないでしょうか。

*2:高い地位があるとは、それだけ責任も重いということ。 あらゆる仕事が医師に負担させられて、人員不足やオーバーワークになっている。 結果的に、たとえば死因究明がズサンすぎる状態にある(柳原三佳死因究明―葬られた真実』などを参照)。

*3:男尊女卑の社会では、どうしても男性への経済的負荷が大きい。 現状の Social Work 給与では妻や子供を養えないので、「男の寿退社」があると伺っている。

*4:病院や製薬会社が「病気をつくる」と言われるのはこのためだ。

*5:孤独死が問題だといっても、コミュニティは、作ろうと意図したところでつくれない。 この点に関して、既存の知識人や専門家の言説はナイーブ過ぎる。 硬直した正義理念や、自分たちのオタク趣味を見せつけているだけだ。――彼らは、自分たちのコミュニティの作法を対象化しない。

*6:医学的・法律的等々の “専門的な” 情報処理は、必要不可欠の「部分情報」になる。

*7:社会参加のスタイルが、「人の商品化=フェティッシュ化」から、「作業プロセスの共有」に向かうべきなのに、知的産業全体が、いつまでたっても「知のフェティッシュ化」に自閉している。 情報生産者のナルシシズムが、消費者のナルシシズムと結託し、社会参加の臨床を歪めている