精神保健福祉士(Psychiatric Social Worker)や社会福祉士(Social Worker)には、厚生労働省のカリキュラムに従った資格取得の教科書がある(参照)。
これを開くと、どのページもカタカナ言葉で埋まっている。 「ソーシャルワーク」「コミュニティケア」「エンパワメント」「ノーマライゼーション」「クライエント」「アソシエーション」「アウトリーチ」・・・。 なされるべき仕事や理念について、日本にはこの活動をめぐる文化がなかったというべきか。
明治時代に西周(にし・あまね)が philosophy を「哲学」、science を「科学」と置き換えたような作業が要るだろうか。 【参照:「理科概論 科学と教育」(PDF、小出良幸氏)】
今の私は、「social work」というふしぎな言葉の意味を、自前で豊かにすることを考えたい。(「社会学 sociology」も、むしろ social work の一環と捉えたほうがよい。)
【参照】: 河原美耶子「日本近代思想の形成過程」(PDF)
西周の思想的業績として第一に挙げられるのは,philosophyを「哲学」と訳したのを始めとして,「主観」,「客観」,「観念」,「理性」,「先天」,「後天」,「実体」,「帰納」,「演繹」など,今日でも用いられている哲学的用語を創案したことである。
彼が「百学連環」において,学と術との区別に留意しているが,一つには,封建的技術学の立場からする学術観への批判的見解を含むものと考えられる。そのなかで,学(science)と術(art)とを区別しており,学をさらに単純な学(pure science)と適用の字(applied science)に,術を技術(mechanical art)と芸術(liberal art)に分けている。 このように,学問の持つそれ自体の価値と実用的観点からの価値との間に,確定的関係を立てることは、西周の大きな思想的課題であったと考える。
最近の私は、ドゥルーズ/ガタリが提出した「リゾーム」「スキゾ分析」といった概念は、実は Social Work をこそ基礎づける用語だったのではないか、と思い始めている。
メタ言説のヒエラルキーに居直るのではなく、分析の手作業(プロセス)にこそ最終権限を与えること。その分析が、目の前で生きられる関係性のあり方と、無縁ではあり得ないこと。
昨今の知的言説は、「彼らのつながり方」は分析しても、「自分たちのつながりかた」は分析しない。 そこでこそ、臨床的な取り組みが問われているのに*1。
【6月5日追記】
お読みくださった方からのメールで、「日本の社会福祉史・時代区分による特徴」など、歴史を記したサイトを教えていただきました。 ありがとうございます*2。
「いや、それは歴史があるのはもちろんですが・・・」と反論しかけて、思い当りました。 日本の Social Work 関連の教科書がカタカナ言葉だらけなのは、旧来の活動がふくんでいた宗教的等々のかたよりを、べつの色彩に置き直そうとする、それ自体が思想的葛藤を含んだ選択だったのではないか・・・と。
関連教科書を読み進めていますが、なんというか、非常にベタな左翼用語(民青系?)がそのまま出てきたりして、戸惑っています。 以下は一例:
これによると福祉教育とは、 (1)学習素材論として「歴史的・社会的存在である社会福祉問題」を取り上げ、 (2)その学習方法論として社会福祉問題と日常生活とを切り結ぶために体験学習を重視し、 (3)具体的にはノーマライゼーションの原理を具体化できる力、社会福祉問題を解決できる実践力、これらを踏まえた「主体形成」を学習目的としている。 (『新・社会福祉士養成講座〈9〉地域福祉の理論と方法―地域福祉論』p.62)
じっせんりょくを踏まえた、しゅたいけいせいを がくしゅうもくてきとしている・・・
概念操作のスタイルそのものに対して、批評的な介入が必要と感じます。――それ自体が、臨床的であるはず。(これも、短期でどうこうできる話ではなくて、とても長く付き合わざるを得ない問題です)