論じている自分の作業過程に照準できるか

菅野盾樹氏の執筆による、臨床的眼ざしの誕生――医療の記号論より(強調・改行は引用者)

 徴候への眼なざしがそれを〈症候〉と捉えること(症候の生成)はどのようにして可能だろうか。この問いに対しては眼なざしが帰属する「暗黙知」(tacit knowing)の規定性を挙げておいた。つまり症候を捉える眼なざしは、生きられたエクスパートシステム(implicit expert system)のひとつの要素なのである。エスノメソドロジストの目的は、おのおのの社会的実践(医療、教育、司法など)に対して、この種のシステムが明確化する様態を記述することだと思える。彼らは、これをもって、コミュニケーション過程において社会的実践の類的同一性が構築されるという事態の解明と見なしている。

 実際のところ、彼らは当該の社会的実践を規定するシステムを前提しているのではないか、という疑いを払拭できない。つまり、彼らの記述の力点は当該のシステムがコミュニケーションのうちで「明確化される」ことの追跡であって、「創発される」ことの解明には至っていないのではないか。

 だが「明確化」と「創発」は同じ事態ではないだろうか。形而上学のことば遣いをすれば、潜在性が現実的なものとして顕わになることを「明確化」と押さえることができるなら、それはすなわち「創発」なのではないか。

この箇所についての、酒井泰斗氏の tweet より:




私は菅野盾樹氏の詳細な文脈は存じませんが、ひとまずこの箇所の問題意識は、

 明確化されたものを事後的に拾い上げるエスノメソドロジーは、《作動中の明確化》に権限を与え、それにふさわしい形で論じることに失敗しているんじゃないか

――そういう疑念として読んだのですが。
つまり、先日の私が「発達障碍」まわりで抱いた疑念に、重なって見えます(参照)。

  • 順応的・官僚的な明確化 と、
  • 批評的でリアルタイムの明確化 は、

やっていることが違うはずです。
後者の場合には、「最終的な完成形」として記述される秩序だけでなく、
作業過程のスタイルや技法そのものに、照準がある。


酒井さん(エスノメソドロジスト?)は、既存秩序の再生産としての明確化に照準することで、批評的・臨床的にやり直そうとする明確化の実験を、黙殺(それどころか断罪)していないでしょうか。
菅野氏の議論から思い出したのは、そういう私じしんの疑念でした。
以下は、その私の疑念について記します。



創発的な明確化」を許さない動き

整備された専門性では、言葉づかいや概念にも、全員が従うべきルールがあります。
そこで、「ルール通りの明確化なら許すが、それ以外は逸脱だ」というなら、
これはたんに、思想警察みたいな活動になります。 あるいは少なくとも、

 明確化の方針に、政治などない

という主張に、なるしかない。


自助グループへの参与観察があっても、
その場で支配的な秩序(自分たちを分かりやすい名詞で名指すなど)を記述する一方で、

  • 既存秩序とはちがう動機づけをもった格闘や、そういう格闘の必然性に照準すること

は、できないのではありませんか。


参加した場で逡巡や対立を目撃しても、あくまで外部から事後的に記述するだけに見える。――そこでエスノメソドロジストが、「マニュアルと同じやり方でしか用語を使ってはならない」というなら、それは作業過程の試行錯誤に、介入しています。


これはまさに、創発的な明確化を阻害している。
対人支援について言えば、臨床事業そのものへの介入です。



「現場にいない思想」という前提のウソ

これは酒井さんに限らず、

  • 思想と臨床はジャンルが違う
  • 精神医学や心理学をやらないかぎり、臨床論をしていることにはならない

という立場全般に言えることですが、

 一方に「臨床ではない思想」があり、もう一方に「臨床としての活動」がある

という欺瞞的な語りを、やめるべきです。
病院や支援の場にいなくても、私たちは常に、お互いに対する《臨床》を生きています(「床」ではなく、本物の現場に臨んでいるという意味で)。言葉の運用のあり方には、つねに《臨床的な》責任がある。そこにどういう介入をおこなうか、どういうスタンスを採るかは、すでに技法論の領域にあります。


現状の、ほとんどすべての言説に対する苛立ち:

 結果としての、あるいは反復される《秩序》には目を向けるが、
 つねに生じている《秩序化の試行錯誤》とその内実については、
 原理的に扱えないスタイルであり、しかもそのことに無自覚。



所与の概念を所与のままに(つまり官僚的に)反復すれば、
それが必要な明確さを保証するわけではないはずです。
というより、そもそもあらゆる《明確化》にあっては、
秩序のない場所で起こる秩序化の動きを無視できないのでは?
「成果としての秩序」だけに目を向けていては、
生成過程それ自体を、ふさわしい形で考えられません。


とりわけ精神科周辺の対人支援では、「自分や環境をどう引き受け直すのか」、
そのつど繰り返される秩序化のやり直しに大きな負荷と掛け金があります。
(主体化をめぐる技法論は、ここに照準している)


ジャンル秩序に順応的な明確さだけを要求すれば、
必要な明確化や、その主題化をスポイルすると思います。



《主体化》という問題系の排除

酒井さんはくりかえし、《主体》という言葉づかいの不適切さを問題にされています。
たとえば http://bit.ly/VN9RFB あるいは http://bit.ly/VN9NG2 など。


これは直接には、フーコーの学術的な議論に即してのご意見ですが、
テーマとしては、さきほどの「明確化」と連動するはずです。


「専門家」の言葉づかいを知った上で、その趣旨を換骨奪胎しつつ、必要な形で考え直そうとするのは、まさに《主体化》をめぐる試行錯誤です。
そこで「主体化」という言葉を禁じられると、モチーフそのものを失うことになりかねません。チャレンジして失敗する以前に、「そういうチャレンジをしてはいけない」という話になってしまう。*1


酒井さんにかぎらず、ほとんどすべての皆さんにとっては、

 《正しい主体化》はすでに自明であり、主体化の技法やスタイルに、政治はない

――そういう主張に、なっていませんでしょうか。
明確化の技法が、問うまでもなく決まりきっているなら、「どう明確化するか」は、わざわざ論じるようなポイントにならないわけです。 「だって、当たり前じゃんwww」で終わり。


酒井さんにとっての「明確化」とは、エスノメソドロジーを事業として引き受けることであり、それ以外の選択肢などあり得ない。それゆえに、《主体化》という概念枠を設定する必要もない――そういう話でないかどうか。


これは、意識を創発的に、制作過程として主題化しようとする立場からすると、
「何が問題になっているか」を理解できない立場に見えてしまうのです。*2


もちろん、菅野盾樹氏、フーコー、そして私では、焦点が違うでしょうけれど*3、主体化というモチーフそのものを禁じるべきだというお話には、「ものを考えるとは、俺がやっているような仕方でしかあり得ない」という、問答無用の抑圧(モチーフそのものの排除)を感じます。



「従うしかない」という思い込みを、補強してしまう

こうしたお立場については、おそらく酒井さんが想定されていない、副次的な影響も懸念されます。というのも、今は誰もがこぞって、医師の(ということは、官僚的な)*4言葉づかいに迎合することで、「制度的に回収してもらおう」と目論んでいるからです。*5


今は不況もあり、福祉的な手続き以外には生き残るチャンスが少ないため、
社会や集団で自分をうまくやれない人の多くが、「医師のカルテ」を欲しがります。
――カルテを求める以外の、原理的にやり直そうとする努力は、危険視される。

 福祉以外に生き残れない 誰もが沈黙し、医師に忠誠を誓う そういう順応そのもので生じる問題(孤立や主観性の硬直)は、ますますひどくなる 福祉以外に生き残れない(最初に戻る)

・・・こういう悪循環です。 自律的な試行錯誤が、つぶされてしまう。


研究者も、支援者も、そして支援対象者も、
「脳髄の異常」、向精神薬認知行動療法など、
《主体化》の問題系を見ない処方箋に従う者だけが承認され、
自律的な問題意識を口にした者は、遺棄される。


エスノメソドロジーが、学問の名のもとに医師と同じ概念操作を要求するなら、
それは「福祉に頼るしかない」という絶望や、それに基づく全体主義を補強します。

 自分でチャレンジしたって、損するだけ。 あとは医師と学者の
 言いなりになって、「いかがわしいカルテ」に期待するしかない。

――これは、短期的・個人的にはともかく、
長期的・集団的には、処方箋になりえません。



「党派性の分析」という課題

ここまで踏まえたうえで、

  • 「主体化という言葉で何を言ってるのかわからない」
  • 「概念はもっと厳密に用いるべき」

という、私が理解できた限りでのご指摘は、有意義なはずです。
主体概念にかぎらず、既存の言葉づかいが、どういう「抱きこみ」を呼び込んでいるのか。
これは党派性の分析にとって、重大な問題提起になるはずです。

    • ここで、「定義もなしに、また新しい言葉が出てきた。《党派性》って何だよ」という問いがあり得ます。ひとまず私は、「そういう言葉で名指すしかない問題意識がある」「名指しておいて、そこで考えるしかない」と答えます。直面している苦しさを言葉で扱おうとして、試行錯誤している。それとこれは、あくまで自己分析的な要因を含むので、「自分だけは党派性を免除されている」とか、そういうことではありません。必ずしも自覚されていない、偏った傾向性とその野合ぐらいのことで、歴史性もあるし、モチーフとしては誰も逃げられません。



私は今回のエントリで、酒井さんに向けてある種の党派性を批判するスタンスを取っていますが、実は同時に問題なのは、そもそも党派性について敏感であるはずの(主体化などという言葉を平気で使っている側の)皆さんは、じゃあ党派性を分析できているかというと、全くできていない。
むしろ、政治性を黙殺していると非難される分析哲学系の議論のほうが、言葉それ自体の物質性に即すぶん、党派性の分析に貢献できてすらいるのではないか。



「あなたはその言葉づかいで、何を話そうとしているのか」
――それは、党派性*6によって正当とされる言葉づかいや、それに基づく研究者じしんの作業過程についてまで、問い直すものであるはずです。*7


つづく




*1:とはいえ、主体という言葉を採用する立場にもいろいろあります。たとえばラカン派では、主体といえば即座に「欠如」の話になってしまい、それ以外の問題設計ができなくなります。

*2:酒井さんだけでなくて、むしろ主体化のありようを技法的にテーマにする立場こそが少数派で、だからこそわざわざエントリしています。モチーフとして根付かせたいので。

*3:フーコーの議論に、直接的な意味での臨床的趣旨は(少なくとも自覚的には)ないと思っているのですが、どうなんでしょう。

*4:実務への制約や責任のあり方から言って、医師は、事実上の公務員のようなポジションにあります。

*5:そもそも社会学者じしんが、医師や官僚の言葉づかいに迎合することで、「自分の業績」を作ろうとしていないか。

*6:専門性それ自体を、党派性と考えるようになっているのですが、これは近代の特質としての専門性を考える議論からは、逸脱なのでしょうか?

*7:私が「不定詞」「動詞のスタイル」と分かりにくい話をしていたのは(参照)、このあたりのことです。たとえば「分析する」という動詞も、立場によって、想定する努力のあり方が違います。つまり党派性の分析は、その分析そのものが党派的なので(一定の偏りを持つので)、「偏りが偏りを分析するのだから、けっきょくは偏ったまま」と言えます。ただそれを指摘するだけでは、「ではどうするか」がよく分かりません。そもそも、偏りごと生きるしかないにもかかわらず、「自分には偏りはない」と言い張るのは、最悪の抑圧です。――自覚するかどうかに関わらず、私たちは具体的な技法を生きてしまっているのですから、つねに分析を繰り返しつつ、技法について工夫するしかないのだと思います。