ネットに、自助グループの機能が期待されている。
私はもう、そこには期待しなくなった。*1
「マイノリティ的な属性の提示」で、自動的につながりが生じるのが当たり前だと思う大きなフォーマットに、抵抗したい。
「わかりやすいネガティブ性」の提示は、常識的な価値観から自由なようでいて、実はそれに縛られたままだったりする。
過去の経歴や属性がどうあれ、差別的に見ないということは、「お互いに日常的な存在でしかない」ことに気づくということ。深刻な経験は、免罪符でも、つながりの保証でもない。
自助グループは、お互いの経験の「相対化」や自己検証のチャンスであって、「同じだよね!」ではない。*2
いまだに、
- 「わかりやすいマイノリティ性の提示」と、
- 「わかりやすい正義の提示」という、
わかりやすすぎる両極だけがあって、それをシャッフルするような、
本当に必要な議論が始まると、そっぽを向かれる状況がある。
当事者性も正義も、実際の活動を支えるには、部分的な機能しかない。
そうしたものの誇示は、幼稚な居直りでしかないことに気づかないと、
具体的な問題意識が潰されてしまう。*3
「わかりやすすぎる正義」は、熱意も持ちやすいし、予算も出やすい。
観客の賞賛も得やすいだろう。でも、積極的な処方箋は何も出てこない。
やった人間がヒーローになるだけ。
全面肯定や「抱きしめてあげろ」は、ナルシシズムの支え合いにはなっても、
長期的な取り組みを支える技法論ではない。