「わかりやすい当事者」&「わかりやすい正義」では、ムリ

ネットに、自助グループの機能が期待されている。
私はもう、そこには期待しなくなった。*1


「マイノリティ的な属性の提示」で、自動的につながりが生じるのが当たり前だと思う大きなフォーマットに、抵抗したい。


「わかりやすいネガティブ性」の提示は、常識的な価値観から自由なようでいて、実はそれに縛られたままだったりする。
過去の経歴や属性がどうあれ、差別的に見ないということは、「お互いに日常的な存在でしかない」ことに気づくということ。深刻な経験は、免罪符でも、つながりの保証でもない。


自助グループは、お互いの経験の「相対化」や自己検証のチャンスであって、「同じだよね!」ではない。*2


いまだに、

  • 「わかりやすいマイノリティ性の提示」と、
  • 「わかりやすい正義の提示」という、

わかりやすすぎる両極だけがあって、それをシャッフルするような、
本当に必要な議論が始まると、そっぽを向かれる状況がある。


当事者性も正義も、実際の活動を支えるには、部分的な機能しかない。
そうしたものの誇示は、幼稚な居直りでしかないことに気づかないと、
具体的な問題意識が潰されてしまう。*3


「わかりやすすぎる正義」は、熱意も持ちやすいし、予算も出やすい。
観客の賞賛も得やすいだろう。でも、積極的な処方箋は何も出てこない。
やった人間がヒーローになるだけ。


全面肯定や「抱きしめてあげろ」は、ナルシシズムの支え合いにはなっても、
長期的な取り組みを支える技法論ではない。



*1:「似たような属性を持つ」場合には、激しい嫉妬なども生じやすい。ひどいことをされる場合も多い。

*2:私がここで提示しているような理解は、「専門家」とされる方々にも、共有されているとは言えない。

*3:たとえば、至近距離の関係がどうなっているのか、どうすればいいのか。大文字のスローガンで「いい格好」をしたがる知識人は、身近な関係をそれ自体として話題にすることを、激しく嫌う。