最初にこちらから:
ここで言われている「取り組み主体の構成プロセスのモチーフ」とはどんなものでしょうか。
「取り組み主体」とは誰のことですか?
できるだけ実直に言葉にすると、以下のようになります*1。
- 既存の言説事業は、解明しようとする対象を言葉にする、その「内容」ばかりに気を取られていて、そこで自分が従事している事業の態勢を忘れている。
- 私は、ある厳密な分節を必要としていますが、それが「通常の経験科学」と違っているとして、どう違うのか。「別のやり方」として、エスノメソドロジー(EM)はどう参照できるのか。まだうまく言葉にできていません。そしてそれこそが焦点です。「別のやり方」による必要な事業の定式化が、まだなされ切っていません。
これはハイデガーを参照していますが、
20世紀にハイデガー哲学を参照して展開された精神病理学(現存在分析)は、生物学的精神医学にすっかり圧倒され、行き詰まっています(参照)*3。 ですので、私がわざわざこんな言葉づかいをしていることの大きな野心としては、
-
- 生物学的精神医学を無視せずに、しかもそれ単独とは別の切り口で取り組めないか
ということで、それもただハイデガー(or それを参照した内外の精神病理学者)に言及すればよいとも言えない。 そこでどうしても譲るべきでない焦点が、「論じている自分の側のプロセス」ではないか――というのが、ここでの見立てです。 自分のことを「精神病理学者」と呼ぶかどうか*4は別として、自分の言説事業*5が秩序化されるあり方を検証することなしに、「精神病理学を再興する」などと言っても、そこで仕組まれていた設計図に服従することにしかなりません。(逆に言うと、日本語で読める範囲の「精神病理学」にも、いまだ満足できないわけです。*6)
酒井さんがお尋ねの件で、私が「取り組み主体」と言ったのは、
事業趣旨を提示できる “臨床家”*7であり、自分の苦しさに取り組む “患者” であり、その関係性が埋め込まれた環境の構成者全体でもあります。 エスノメソドロジーでいう、「メンバー」がそれに当たると思われます。
メンバーとは、「常識的知識を適切に用いることにより、自然言語を使いこなして事態を記述できることを指す」(『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.7)
自分をふくむ「人々」は、関係し合いながら自らを構成しお互いを受け入れあう(拒絶しあう)ので、一人のプロセスだけを取り上げても正当な捨象にならない。 ここでは、集団的な意思決定(その手続きや秩序化の実際)が、内面事情の苦痛緩和に内在的な問題になります。 ⇒ 意思決定の手続きである「学問の方法論」や「政治体制」と、《臨床上の技法》が、分けて論じられない。
私ひとりが言葉を尽くす前に、既存書籍で関連するところを引いておきます(強調は引用者)*8。
上山和樹: 〔80年代に流行した、フェリックス・ガタリの精神医学系言説について〕 要するに、わかりきった左翼のイデオロギーを肯定するために難しい言葉を並べてるようにしか見えなかったんです。実は三脇さんと知り合ったあとも、何年間かはそういうものとしか思っていなかった。「制度論」とかなんとか、まあ反体制的な精神医学なんだろうなと。それが、イデオロギーを押し付ける運動論とは逆の動きをしているらしいことに気付いて、興味が出てきた。むしろ、すでに成立している考えや制度を自分で分析するんだと。 〔以下、鉤カッコ内は引用〕「制度論を成立させるために何よりも重要なのは、平凡さに向き合う勇気と粘り強さである」*9。 大事なのは、新奇な単語よりもむしろそっちでしょう。文脈の勉強として単語や思想家の名前が必要なのはわかるんですが、取って付けたようなカタカナ言葉を持ってきたって、自分の置かれた状況を分析したことにはぜんぜんならない*10。
三脇康生: そもそもガタリなどが概念を作り出したのも、もとは彼らの置かれた状況に取り組む中での「苦肉の策」だったはずなんです。先ほど出た「スキゾ分析」というのも、スキゾの人が耐えられる環境をつくるための分析という意味で、スキゾよりはむしろ「分析」に力点があった。バラバラな状態を理想化してそれに順応するということではなくて、その状況に耐えられるように、分析的に介入していく。
上山: スキゾの全面肯定じゃないということですね。そこはもう、脱力するぐらい「話がちがう」。どうやら制度論やスキゾ分析というのは、主体の立ち上がりの、そのプロセスに焦点をしぼった話らしくて。状況の組み直しや分析労働がフレームを与え、それがそのまま本人にとっての治療過程になっている。その「本人」というのは、論じているスタッフでもありますね。徹底して「プロセスの危機」に照準した、非常に独特な疎外論だと思うんです。
三脇: ラ・ボルド病院の院長のジャン・ウリにまさにそういう趣旨の博士論文があります。「美的努力に関する試論(Essai sur la conation esthétique)」という論文です。美的努力つまり制作プロセスを継続するためには「患者もスタッフも美に飲み込まれてしまわないように、制度分析を継続しなければならない」という結論に至る論文です。制作プロセスというのは芸術領域だけでなく、生活領域でも同じことが考えられます。 (略)
上山: 私は、アカデミズムと支援現場、双方のフィールドの方とお話しさせていただく機会があるんですが、お互いの間で、「言語」が違ってしまっていますね。『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.238-9
この文脈での「美に飲み込まれてしまう」は、固定された指針に巻き込まれ流されることであり、エスノメソドロジーに言う「判断力喪失者」*11に重ねられるかもしれません【酒井さんにご指摘いただいた通りです(参照)】。
判断力喪失者は英語で「judgemental dope」ですが、dope という、依存症にかかわる言葉が使われているのがたいへん示唆的です。 それは「cultural dope」でもあり、文化フレームの現場的な換骨奪胎が問題になっている。 価値観や視線のフレームに嗜癖し、そこから抜け出せずにいること――それは既存社会学を批判する文脈だったかもしれませんが、期せずして “臨床的な” テーマ設定にもなっている。 【たとえば私は差別主義者を、「差別的目線を生きることへの嗜癖症者」と理解しています。 あるいはまた、間違った悩み方に固執する人は、その方法論に「嗜癖している doped 」。 多くの医師は、DSM的なカテゴリー目線に嗜癖している。】
*1:とはいえ、既存文脈を参照しながら問題を再構成する作業に、これから何年もかけなければいけない、と感じています。
*2:【エントリー数時間後の追記】: 今回私は《場所 Ort 》という考えを参照していますが、それがハイデガー思想全体のなかでどう位置づけられているか、EMの概念構成とどう違うのかなど、まだとても論じられません。 問題があれば、ご指摘いただけるとうれしいです。 (私はそうしたことにも、「苦痛緩和にとってどういう積極的な意味があるか」という切り口で興味を持つことになります。)
*3:酒井さんは十分ご存じと思いますが。
*4:あるいは、医師でない者にそんなことを名乗る権利があるかどうか
*5:と、そこに設計図として仕組まれた関係構図
*6:まだまったく勉強途中ですが
*7:あるいはここで、《social worker》という言葉を使いたくもなっています。 生物学とは別の臨床趣旨をもった事業を、社会学ではなく、《social work》と名指せないものか。 それは単に医療目線に服従するものではなく、独立した意義と指針をもつ――と。
*8:冒頭の私の発言のみ、出版された書籍ではなく、テープ起こし後の草稿から転載しています。 こちらのほうが、エスノメソドロジーとのつながりが見えやすいと思ったので。
*9:『学校教育を変える制度論―教育の現場と精神医療が真に出会うために』p.6、三脇康生による序文
*10:これは部分的に、酒井さんの疑問:「上山さんがなぜ・どういう必要があって「支援現場でアカデミックな」語り方をしようとするのか」(参照) へのお返事になっていると思います。 とはいえこの件は、あらためて取り上げ直します。
*11:『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.77参照