「メタ言語はない Il n'y a pas de métalangage.」

無意識の影響を受けない発言や書き物はない、それゆえメタ言語は存在してはならない*1
考えてみればこれは、当事者性を回避できる人などいない、ということ。


フロイト的な無意識論は、当事者性を独特の仕方で主題化している。

 「他者についての語らいのなかで、あなたのことが問題になっている(De Alio in oratione, tua res agitur.)」*2



これに対し、フロイト/ラカン派から出発したジャン・ウリやフェリックス・ガタリは、いわば当事者化の作法が違う。
ひとまず、「対象概念より、制度概念で当事者化を行なった」と言えると思う。 ウリ/ガタリには「制度論的対象」という表現もあるようだが*3、議論伝統の中で、《対象》概念と《制度》概念がどうリンクし立場を分けているかは、まとまって検討する必要を感じる。

    • 転移の支援は、対象としての特異性をもたらすことによるのか、それとも日常性の組み替えによるのか。 対象概念のみに拠るのか、制度とプロセスを話題にするのか。 ▼対象概念だけでは、嗜癖を待つことしか出来ないように見える。 いっぽう制度分析は、より優れているように見えるものの、それ自体が儀式になり得る。 長期的視点を失って近距離の組み替えだけに埋没すれば、自意識の知覚過敏になる。 意味のない受傷性に耽溺することは、怠慢といえる。
    • 当事者性(「あなたのことが問題になっている」)は、言語とともにある人間だけの現象。 物質は当然のこと、動物どうしの関係にも《当事者》はいない




*1:不可能なことを禁止する、というラカン的モチーフ。 ▼「メタ言語はない」というラカンのテーゼについては、立木康介精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題』第一章などを参照。 もとのラカンの発言は、セミネール第20巻Encorep.107。

*2:精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題』p.46。 ラカン原典は『Écrits』p.814。

*3:精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』p.166に、ウリの発言として引用されている。 注によると、原典はL'aliénationp.204。 ▼ウリとジネット・ミショーによる解説(参照)では、「objets institutionnels」という表現が見える。