「制度を使う」ことのあやうさ

立木康介ラカン派の視点から――制度を使った精神療法ラカン派応用精神分析」(『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』pp.347-370掲載) p.349-350 より*1

 「パリ・フロイト学派」、および、1980年の同学派解散のあと、それを継承する形で設立された「フロイト大義学派(École de la Cause freudienne ECF)」は、これまでつねに、純粋精神分析の充実に心を砕いてきた。なぜなら、純粋精神分析、とりわけ1967年にラカンによって提唱され、1969年に適用されるに至った「パス passe」の仕組みが回転しないかぎり、学派は「精神分析とはなにか」を決定することができない、いいかえれば、自らがそこに拠って立つべき「精神分析なるもの」をもつことができないからである。これにたいして「応用精神分析psychanalyse appliqué*2」は、あくまで、「純粋精神分析」によってそのように確立された「精神分析なるもの」の応用として、すなわち「純粋精神分析」によって支えられる二次的な分野として、位置づけられてきた。
 だが、ラカンの生前には彼を失望させることしかなかった「パス」の運用が、その死後20年を経てようやく定着し、すっかり軌道に乗ったとみなされるようになったここ数年、ラカン派、とりわけ ECF は、こうした既定路線を目にみえる形で転換する新たな方針を打ち出してきた。すなわち、応用精神分析、とくに「制度=施設へと応用される精神分析」を見直し、この分野におけるラカン精神分析の取り組みを強化しようというポリティクスである。

「パス」の仕組み――これはたんに、一般に理解されているように、分析家の資格認定を行うための独自の制度であるというより、むしろ、自分がひとつの精神分析を終えたと考えている主体の証言を学派全体が承認することで、「現時点における精神分析とはこれである」と学派が主張しうる精神分析なるもの」をそのつど創造するプロセスであるといわねばならない。



ラカン派の「パス passe」が「精神分析なるものをそのつど創造するプロセス」であり、第三者的な問い詰めと検証の仕掛けであるように、制度分析*3にも、そのような機関(仕掛け)*4が必要ではないか。 「精神医療審査会」に相当する「制度分析審査会」、あるいは「passe」ならぬ「passe institutionnelle*5にあたるような何かが。


「誰が精神分析家なのか」が問題になるように、「誰が制度分析を行なっているのか」は、資格上の問題だろうか。(フェリックス・ガタリは、よく「精神科医」「精神分析家」などと肩書を紹介されているが、実際には完全に無資格で働いていたらしい。*6


ラ・ボルド病院で「制度を使った精神療法」を唱道するジャン・ウリは、次のようにいう:

 大事なのは、知らないうちにものごとが決まっているという状況なのです。これのことを私は「決定の機能(fonction décisoire)」と呼んでいます。ある一人の人物が偉そうに、自分が決定権をもっている人間だといった形で決定されるのではなく、知らないうちにものごとが決まっていく。そういう決定の機能が非常に必要なことなのです。 (ジャン・ウリ、『医療環境を変える』p.34)

「知らないうちにものごとが決まっている」――これは、資格認定としても、職場での集団的意思決定の問題としても、あやうすぎるように感じる。 また、精神分析でいう技法や句読点(参照)に相当するものは何だろう。


三脇康生は、制度分析のプロセス面に注目している。:

 ウリのいっている制度分析は、それが「institution(制度)」の生成に含み込まれているものだ、もしもフランス語で書くならばできあがった institution ではなく、プロセスとしての「institutionalisation(制度化)」として含み込まれているのだということを忘れてはならないだろう。そして、人間の基盤を終わりなくつねに創造し直す「場=institution(制度)」、それをウリは統合失調症の患者のために用意し、そこに関わる「正常」なスタッフにもへ参加することの喜びを知らしめようとするのだ。 (三脇康生、『医療環境を変える』p.279)

《制度化》の内発的生成*7は、個人レベルで精神的疎外を回避するには是非とも必要だが、それが同じ場所で複数人に営まれた時には、集団的形成(アジャンスマン)や意思決定はどういう顛末になるのか。
ウリは素っ気なく「知らないうちにものごとが決まっている」というが、集団的な《制度化》の動きにあくまで抵抗する個人の出現*8に、どう対応するのか。 それどころか、制度分析を試みた自分こそが、制度逸脱者として排除されるかもしれない(参照)。 ▼そもそも制度分析や「制度を使った精神療法」は、硬直した制度・態度への反省や抵抗であったはずだが*9、カウンターとなる強制力はどうやって担保されるのか*10


この方法論の維持しがたさは、松本雅彦によって指摘されている。

 先ほどウリ先生が、ラ・ボルド病院は決してモデルではないとおっしゃったのですけれども、なぜフランスでラ・ボルド病院がこの40年、50年*11、単に特権的な位置を占めているだけなのかというのは、やっぱり疑問です。
 ラ・ボルド病院でやっていることは、本当にいいモデルと思われる、ものすごくいいものとして普遍化できるのではないかと思います。ところがそういうものがなぜフランス全土に広がらないのだろうかと思います。日本にも最近では北海道の「べてるの家」という、とても自然発生的な雰囲気の所がございます。ただなぜもっと広く普及しないのだろうということが問題です。たしかにウリ先生のおっしゃるように、一つのモデルになってそれが普遍化したとなれば、それは固いシステムになってしまう。それは権力的場になっていくだろうから問題なのでしょうけれども、やはりもっと広がっていいのではないか。 (松本雅彦、『医療環境を変える』p.39)

これに対するジャン・ウリの答えは、それ自体が危ういものになっている。
以下、返答に該当すると思われる個所より:

 ラ・ボルド病院というものは、大きなこういうようなネットワークの一つの点に過ぎないのです。あくまでそういう点なわけです。そしてラ・ボルド病院は、先ほども言いましたように、過渡的といいますか、いまにもつぶれそうな存在でもあるわけです。経営的にも、運営的にも、いまにもつぶれそうな存在なわけです。しかしそれが理想なわけです。きちんとした安定したものを作りあげることでは一つの開かれが存在することにはなりません。(ジャン・ウリ、『医療環境を変える』p.41)

硬直した社会の中で、あやうい “開かれ” をあやういまま維持しようとする努力。
これは、なんだか取り組んでいる人間がズタズタになってしまわないか。
取り組む人間を守るためにも、「あやういものを維持する技法や手続き」が、どうしても必要に思える。



*1:本エントリーにおける引用の強調箇所は、すべて引用者によるものです。

*2:参照1】、【参照2

*3:あるいはガタリなら分裂分析(schizoanalyse

*4:何気なく併記したが、「機関」なのか「仕掛け」なのかというのは、《第三者の審級》と《取り組みプロセス》の関係を考えるうえで、決定的にちがう。

*5:「制度論的教育分析」? あるいは、ラカン派の「passe」自体が、制度分析的なものになるべきだろうか。

*6:医療環境を変える』 p.281

*7:制度分析の分節過程(労働過程)が、制度化の過程そのもの

*8:端的な悪意だけでなく、どこまでも順応主義的な良心に固執する人は、自分の「命綱」を手放そうとはしない(参照)。

*9:「制度分析」「制度を使う」という発想は、ドイツ第三帝国の占領に抵抗するレジスタンス運動に深くつながっている。 【参照:「《制度が病む》という発想」】

*10:私が《法》にこだわるのはそのためだ。 【参照1】、【参照2】、【参照3】 ▼「制度論的な施設だとか場所だといわれているところには、カリスマが存在している」というが(『医療環境を変える』p.236)、ではカリスマが死んだら強制力が失われ、制度分析は消え去るのだろうか。 → 同書 p.241 では、「カリスマなき制度使用」という言葉が出ているが。

*11:ラ・ボルド病院がジャン・ウリによって設立されたのは1953年。