党派の分析、分析の党派性

つながりを生きるためには、党派の分析が要る。
「ひきこもりの治療」や「全面肯定」が、関係者への洗脳のかたちをしていないかどうか。
つながりを生きることは、必ず党派性を生きることになっている。


ひきこもる人は、孤立したカルト的党派。 意識生産の指針がお互いひどく似通うのに、連携できない。つながるとしても、その連携パターンがひどく固着していて、集団的方針をいつの間にかなぞっている*1


「党派はいけない」というだけでは、自分だけは党派的でないみたいな言い分になる。党派性は、いつの間にか生きている無意識みたいな傾向性であり、自分の語りはすでに一定の選択を終えたあとの姿をしている。つながりを創るとしたら、そこを資源とするしかない。そして、党派性の分析を共有できるかどうか。


「科学vs現代思想」 「大陸系vs分析哲学」だけでなく、精神分析、現存在分析、制度分析、分裂分析など、分析指針それ自体が派閥を分ける。 結論が違うというより、分析スタイルそれじたいに党派性がある*2。 何を前提にして分析しているか。その前提部分は、それぞれの流儀に応じて押し付けられる。


より厳密に考えようとしても、語る自分が生きる時間をメタに固定し*3、「情報を客観的に処理する」「大文字の真実に到達できる」とばかり考えることは、その《悩み方》がすでに一定の分析指針しか生きていない。本人が「自由に」悩むことが、党派的選択を終えたあとの姿をしている。自分の生きようとしている分析そのものの指針を知る必要がある。


「当事者こそが真実を口にできる」という思い込みは、「プロレタリアこそが真実を認識できる」*4というカルト的思い込みに近づく。 論じる自分それ自体の生産に気づかないと、「客観的真理をつかんでいるのは自分のほうだ」というベタな党派闘争になる。


意思決定のイベントは、集団に対する精神分析のように機能する。 意思決定の手続きをどうするかは、《技法論》にあたる。 親密圏と化した党派には、このイベントがない。


愚にもつかない党派的思い込みを反復することが「社会性」と呼ばれている。
禁じられた分析を口にすることは、逸脱として現れる。



*1:2chだけでなく、自助グループや支援団体でも、ひたすら繋がろうとするばかりで、「つながりかた」が分析されていない。

*2:党派性を生きない分析はない。だからそのつど必要な機能に応じて、使い分けが要る。ただ、「本当に必要な分析が生きられていない」という苦しさが常にある。ようやく生きられた「必要な分析」は、たいてい仕事とは見なされない。あるいはトラブルの火種になる。 「その派閥内において、構造的に禁止された分析」がある。

*3:身体は4次元時空に生きていても、理論的考察はメタ領域にあるつもりになっている。しかし、「考察する」という営みはそれ自体として生産過程であり、具体的な質と傾向をもっている。

*4:いわゆる「認識の党派性」