臨床上の技法論としての、「身近な民主主義」

ひきこもる人たちは、コミュニティでの人間関係は下手だが、選挙での投票率は高いといわれている*1
つまり、《お祭りとしての意思決定》には比較的参加しやすいが、あいまいに持続して息継ぎの場所もよく分からない《日常の意思決定の関係性》が、できない。


システムに担保される意思決定の場があれば、参加しやすい。 あいまいなコミュニケーションを直接要求されるのではなく、暴力的に固定されたインフラにしたがって選択権を行使すれば済むような参加(選挙、インターネット等)。


「民主主義2.0」として、ネットでの直接選挙等が取りざたされているが*2、そこでは意思決定の方法が話題になっているだけで、《参加》の側面が論じられていない*3。 いくら新しい投票システムを考案しても、それは一時的なお祭りシステムを考案することに当たる。 斬新な意思決定システムの陰で、ベタな人間関係は前近代的体質で残り続ける。


継続的な社会参加ができない人たちにとっては、むしろ《日常》の場を支配するあいまいな意思決定の機会こそがネックになる*4。 それゆえ社会参加の臨床論としては、このあいまいな意思決定の機会こそが工夫されねばならない。――ここで、意思決定(政治)の問題と、臨床上の取り組みとが、同じモチーフで重なり合う


仲良しコミュニティに満足する人は、その場が激しい強制力を内在させていることに、なかなか気付かない*5。 コミュニティ内部には、選挙のように明示的でお祭り的な意思決定のイベントも、裁判のような検証システムもないので、いつの間にか中心になった人物がいつまでも前近代的な権力を維持したり、私刑的な嫌がらせが続いたりする。 その場の文化モードも、基本的には替わらない。 そうすると、なじめなければその場を去るしかないが、かといって自前でコミュニティを建てるには、稀少性の高い才能が要る。――放置していれば、《関係性の再分配》*6は成り立たない。


小規模の関係性*7においても、選挙や裁判に相当するような、公正性の高い手続きが必要に思う。 そしてそれを支えるには、強制力が要る。 大規模な社会秩序が暴力なしには支えられないように*8、小規模の関係性も、暴力なしには支えられない。



ペンと剣にまつわる4つのルール」(sivadさん)

 「剣の均衡」が無いところに、「ペン」の力はあり得ません。 インフラの存在に慣れすぎると、それが作られたものであることを忘れてしまう、というやつです。 (略) 偉大な統治者なき民主主義を生きるにあたって今本当に考えるべきは、プラスサム*9につながる「剣の均衡」をいかに取り戻すか、という問題だと思います。

 「ペンは剣より強い」という言葉自体は19世紀イギリスのリットンによる戯曲「リシュリュー」が出典といわれているようです。興味深いことに、原典ではこの言葉の前に「偉大なる者の統治の下では」という前置きがあるとのこと。

 Beneath the rule of men entirely great,
 The pen is mightier than the sword. (Wikipedia

「ペンと剣」の葛藤は、身近な関係性にもある。
言葉での動機づけに失敗すれば*10、強制力が必要になる。
つまり私たち自身が、公正な強制力を設計しなければならない。

    • 【メモ】
      • 動機づけや強制力に成功したコミュニティは、強固な集団的ナルシシズムをまとうため、個人で抵抗するのは本当に難しい。 「宗教団体内部で、その団体を批判する」みたいな作業になる。
      • やたらにフリーハンドな関係性は、細やかな配慮があるように見えて、じつはお互いの実存に振り回されてしまう。 意思決定の手続きがなければ、お互いの自由はかえって減じる。 それは結果的に、臨床的配慮のある環境ではなくなってしまう。 ▼「制度を使った精神療法」という、臨床的趣旨を中心とした取り組みでは、民主的再編成への照準化はあるものの、集団的意思決定の問題が解決されていない。




親密圏や中間集団での democracy は、臨床的な技法論

ishikawa-kz*11 「家族内にデモクラシーを打ち建てる」*12  ホントは戦前の社会運動からずっとこれが大テーマだと思います。

・・・・しかしその割には、規範的に「そうすべきだ」という議論はあっても、具体的な技法論が欠けていると感じます。 「民主主義2.0」がネット技術を媒介にしているとして、「コミュニティや親密圏の民主化」は、どういう技法的媒介項に基づけばいいのか。
ひきこもる人が、親や行政のお膳立てに従うのではなく、自分たちで関係性を作ろうとすれば、歴史的に繰り返されてきた社会的な試行錯誤が再演されて当然です。 至近距離の関係性は、どういう政治技術でマネジメントできるのか。
親密性の変容』、『親密圏のポリティクス』、それに経営学グループ・ダイナミクスなどが、ひとまずそういう議論の領域なんでしょうか。



*1:膨大な事例数に取材された斎藤環氏や池上正樹氏の証言

*2:「ネットがあれば政治家いらない」 東浩紀「SNS直接民主制」提案 : J-CASTニュース 「ネットがあれば政治家いらない」 東浩紀「SNS直接民主制」提案 : J-CASTニュースその動画

*3:樋口明彦氏が『Life』で指摘したように

*4:だからSF的には、選挙のような参加システムで人生全体を覆い尽くすことが期待される。「人と話さなくてもいい、ただ選択ボタンを押せばいい」というような。 ▼しかしここには、「システム設計で自動的に導かれる」以上の訓練機会がない(参照)。

*5:「いつの間にか自転車に乗れていた」人が、自分の筋肉の事情に気付かないように。

*6:樋口明彦氏の表現

*7:二人きりの関係性にも、意思決定の問題は生じる。 「メニューを決める」ような日常的合意形成のほかに、全体社会のルールに違反しているように見えても、「二人きりの同意」があれば許されることがある。

*8:支配に成功したインフラは、それが暴力に支えられていることを気付かせない。

*9:ゼロサム」というと、誰かが得をすると誰かが損をしている、つまり関係者の利害総和がゼロになるような状況。 「プラスサム」は、参加者の全員が恩恵を受けることが可能な状況のこと。

*10:積極的なことをさせるだけでなく、嫌なことをやめさせるのも「動機づけ」です。

*11:コメントありがとうございます

*12:Building the smallest democracy at the heart of society.」(1994年、国際家族年のスローガン)