『クォンタム・ファミリーズ』 読書メモ

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ

読んでよかったです。
文芸的な価値は私には判断できませんが、刺激やヒントがたくさんありました。
量子論(とりわけ並行世界)の大まかな知識だけでも持っておくと、面白さが増します*1
以下はとりあえずの覚え書き。(※ネタばれ注意)





      • 【2010年2月14日の追記】: 「一回きりの生をそのまま肯定する」ことにも、「無数の可能性を想像する」ことにも、その一回きりの実態を素材化して考え直す、内的生成がない。 ベタな事業ナルシシズムがあるだけ。 単に直接的に肯定されたメタが、ベタなオブジェクトとして生きられている。


  • インターネットと脳髄が、量子論的な実験場になって並行世界との通路(媒介メディア)になる、という着想が本当に面白い。
    • ものすごい楽になると同時に、瞬間だけ死にたくなる。 「なんだ、無理しなくていいんだ」「一からやり直そう」という楽観は、自殺念慮と踵(きびす)を接する*2


  • 個人の複数性や可能性を、現世的に改善するのではなく、並行世界で考える。 尊厳のリソースが無尽蔵になる(p.18)。
    • 分岐はあり得ても、実存の態勢がずっと同じならば、いくら並行世界を重ねても「ダメな自分」しかいないかもしれない。 単なる物理的「並行世界」だけでなく、反復される実存プロセスの態勢を変えたい。 逆にいうと、いくら実存の態勢を変えても、《この肉体に監禁されたこの世界》しかないのは耐えられない。


  • 作中の「検索性同一性障害」(p.273)は、SF的設定において自分を構成する困難を体現する。 本書ではそれがカルトの集団になるが、じっさいの世界では、むしろその「構成プロセスの困難」こそが引きこもり(地下室人)に帰結する。 小説では「危機ゆえに群れる」が、現実には、危機ゆえに「一人カルト化」する(参照)。
    • 【一人カルトのメカニズム】: 自分を基礎づけずにいられないのに、基礎づけることができないという底抜け状況の症状(基礎づけ強迫)。 「動きのなかにおける動きとしてのまとまり」を作れないゆえに、状態像としては硬直してしまう(去勢のフレーム問題*3。 《家族=ファミリーズ》は、カルト化した個人をたんに包摂するしかない。
    • 正確にいえば、「解離=同一性障害」と、「去勢のフレーム問題による基礎づけ強迫」は分けて考えるべき。 この小説の登場人物や作品設定には、後者が見られない。 解離状態を構成するそれぞれの世界人格は、「35歳問題」以外にはプロセス構成の困難を持たない。 だから作中の人々は、「やむにやまれず引きこもる」のではなく、ただ進んで引きこもる。 自足した孤立が(並行世界からの干渉で)危機に晒されると、群れて安心する。 実際には、群れると(中間集団をつくると)自分が危機に晒されるのに。――個人の危機と集団のロジックが、現実とは逆向きになっている。
    • お互いに似通った一人カルトの乱立は、「スタンドアローン・コンプレックス」にならない。 バラバラなのに、本人も関係性も硬直する。 「その気になれば繋がれる(家族になれる)」という状態ではなく、嗜癖的に監禁されている。


  • 政治的・経済的に「地下室人」を肯定できても、彼らに家族は作れない。 ここで優勝劣敗は「親密圏を作れるか否か」にある。――とはいえ、「親密な関係の再分配」だけはできない。演技やケアはできるが。
    • 《親密圏=ファミリーズ》なしで生き延びる実存の態勢づくりや、環境設計が要る。 無理なら、親密圏そのものを内在的に考えざるを得ない。
    • 最先端であるはずの知識人たちの仲間内が、独裁的・前近代的に見える。 しかし逆にいうと、リベラルな中間集団の作法がいまだ分からない。(ネタでもベタでもなく、つねに「素材化」し直せる共同体を考えたい)
    • “ブンガク的” 惑溺は、臨床レベルでの思考停止にあたる。 愛や実存こそ、SF的に、「人間の条件」のレベルで語るべき。 ほとんどフィクションを読まない私にとって、そういう確信も今回の収穫。


    • 古典力学ならぬ、「古典的関係論」という表現を思いつく。 労働過程論も classical すぎる。
    • 分節プロセスの医学である精神医学には、量子論的《収束》だけでなく、《労働過程=実存・芸術》、《集団的意思決定》といったモチーフが内在的に必要。 「科学」という目線で精神はみれない。 ▼プロジェクトとしての量子論じしんは、集団的意思決定や人為的制度、「自分のプロセスが言語であること」などを無視していないかどうか。*4


  • 制度的縛りから離れてようやく分節が自律化する*5。 しかし「自律的分節」がすでに制度的フレームをもって成立する。 自律的分節は、集団的意思決定を忘れると「暴力的巻き込み」にしかならない2064年の汐子(p.350)
    • 自律的な人間はお互いに環境であると考えれば、中間集団の環境論が必要。 (親密圏の永続革命?)
    • 差別問題(与えられたカテゴリーへの実存の幽閉)に、「プロセス」で取り組むか、「固定指示子」で取り組むか。
    • 「世界を体験するための技術的環境」の提供者は、Social Work をしている、とは言えまいか。


  • 「現世を引き受けなさい」 vs 「現世では耐えられない、興味もない」
    • 実存の初期条件を、可能な限り変えてしまいたい(参照)。 固定された条件内での「環境管理」は、私の実存への監禁的管理になってしまう。 同じ身体と関係に閉じ込められてしまう。
    • 《人間の努力》の存在論的地位を見極め*6、その可能性を極限まで展開するには。――そう考えることが、自分を構成する困難を忘れさせる。しかしこれは、「ゲームに対して」勝とうとすることであり、ゲーム内の存在としては逃避であり、「ゲームにおいて勝つ」ことができなくなる(参照)。 ゲーム内の存在としては、設計された環境を生きるしかない(p.95,l20*7
    • 「ハッキングこそが幸せの条件」(p.227)だとして、どのレベルにハックするか。 これは、政治性をふくんだ臨床技法の問題だ。




*1:作品中にある細かいSF的な説明は、ディテールを読み飛ばしても大丈夫なはずです。

*2:自分を現世につなぎとめる強制労働という側面。 「これしかないなら、これを生きるしかない」

*3:全否定と全肯定を往復し、止まってしまう。 ▼「ポストモダンの主体は罪の主体ではなく恥の主体である…(略) 恥の主体は全能感に満たされないとき全否定となる」(『臨床社会学ならこう考える 生き延びるための理論と実践p.305

*4:(※ここにあった注を削除しました) 

*5:肉体のない汐子(p.193

*6:「人間は数学には抵抗できない」(p.352

*7:相対性理論では、時間と空間を全く同等に扱うらしい。 しかし、三次元方向は往復できるが、時間方向はどうにもならない――そうした事ども。