統治技術と臨床技法(メモ)

無意識論は、人格を単位とするのではない特異な意思決定論であり*1フロイト的な技法論は、面接室内での統治技法といえる*2。 臨床技法は、それ自体が意思決定のための政治技術になっている。



制度分析は、分節プロセスを中心化することで、本人内部の民主的あり方にはある程度成功していても、そういう個体が複数集まることでの意思決定には、何の技法もない。そもそも、「本人が分節したと言えばそれで分節したことになる」というのは、自由度は高いしそこでしか見つけられない分析があるにしても、反復強迫的な固執以外には、外部性を担保できない。自分が「これでいい」と実存的に思い込んだら、それで決まったことにされてしまう。 「私が行なった分節」は、私の内部では統治*4に成功しただろうが、他者との関係では無意義に放置される。

ジャン・ウリ/ガタリ的な「制度を使った方法論」は、局所を微分して大局構造を導き出す*5のが目的ではなくて、その都度その場で傾きを組み直すことを求めている。しかしそれは、毎回その場で制度を解体して組み直すことであり、これ以上ないほど権力的なふるまいをやろうとしている(手続きもなしに)。そんなことを恣意的にやられては、周囲はさんざんに振り回される。 そのつど分節過程を絶対化するような統治が無数に乱立すれば(千の高原)、収拾がつかない(うまくいったとすれば、逆にお互いに外部になることに失敗している)*6

    • 「臨床で治して、それから政治に参加する」というだけでなく、意思決定の技術は、主観性の生産に介入する技法として、それ自体に臨床的負荷がある。 ▼法は、意思決定に関する別体系の技術。 「法と精神医療」というと、39条(責任能力)の話ばかりだが、legal mind や法的な紛争処理の取り決めが、臨床的な影響をもつ。
    • 措置入院インフォームド・コンセントDSMによる支配、「奴隷的」と形容されがちな Social Worker の労働環境など、精神医療の現場そのものが、《集団的意思決定》について、深刻な葛藤を抱えている。
    • PC的には、「権力を批判する」という権力をただ生きればいいかもしれない。しかし、苦痛の機序に内在して考えようとするなら、介入権力のありようをこそ研究し、創出しなければならない。 「素材化し、プロセスを生きろ」とのみ言うわけにはいかない。


大きく、次のような対比がある

  • 内在的に効果はあるが、統治できない 【人文的に「プロセス」や個別臨床に注目はしているが、集団的意思決定の技法がない】
  • 統治はできるが、臨床的にまずい 【順応主義や権威主義。マニュアルやモデル生産に嗜癖する党派活動でしかない】




*1:「無意識というマイノリティ」を、無視してやっていくのかどうか

*2:勘違いした意識(=「意識生活というマジョリティ」)のままではひどい状態だったのに、「臨床面接の後には適切な状態になった」としたら、意識生活の統治システムが変わったといえる。 適切な政策的介入のような臨床面接。

*3:精神分析・臨床心理・行動療法ほか、臨床の諸学派は、統治スタイルのいろんな流儀にあたる。 DSMやICDも、現場的な意思決定のツール。あんまりものを考えない人でも、「そうなってるんです」と言われると喜んでそれに従ったりする。

*4:=内発的生成

*5:中沢新一ドゥルーズ理解(参照

*6:それでは、まったく前近代的な党派活動だ。