無意識論は、人格を単位とするのではない特異な意思決定論であり*1、フロイト的な技法論は、面接室内での統治技法といえる*2。 臨床技法は、それ自体が意思決定のための政治技術になっている。
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- 「社会化」とは、ある統治フレームに人を収納すること。
- 統治機構としての臨床コミュニティ*3
- 小沢牧子『「心の専門家」はいらない (新書y)』p.33 「自由に決めよ、ただし望まれる形で」
制度分析は、分節プロセスを中心化することで、本人内部の民主的あり方にはある程度成功していても、そういう個体が複数集まることでの意思決定には、何の技法もない。そもそも、「本人が分節したと言えばそれで分節したことになる」というのは、自由度は高いしそこでしか見つけられない分析があるにしても、反復強迫的な固執以外には、外部性を担保できない。自分が「これでいい」と実存的に思い込んだら、それで決まったことにされてしまう。 「私が行なった分節」は、私の内部では統治*4に成功しただろうが、他者との関係では無意義に放置される。
ジャン・ウリ/ガタリ的な「制度を使った方法論」は、局所を微分して大局構造を導き出す*5のが目的ではなくて、その都度その場で傾きを組み直すことを求めている。しかしそれは、毎回その場で制度を解体して組み直すことであり、これ以上ないほど権力的なふるまいをやろうとしている(手続きもなしに)。そんなことを恣意的にやられては、周囲はさんざんに振り回される。 そのつど分節過程を絶対化するような統治が無数に乱立すれば(千の高原)、収拾がつかない(うまくいったとすれば、逆にお互いに外部になることに失敗している)*6。
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- 措置入院やインフォームド・コンセント、DSMによる支配、「奴隷的」と形容されがちな Social Worker の労働環境など、精神医療の現場そのものが、《集団的意思決定》について、深刻な葛藤を抱えている。
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- PC的には、「権力を批判する」という権力をただ生きればいいかもしれない。しかし、苦痛の機序に内在して考えようとするなら、介入権力のありようをこそ研究し、創出しなければならない。 「素材化し、プロセスを生きろ」とのみ言うわけにはいかない。
大きく、次のような対比がある
- 内在的に効果はあるが、統治できない 【人文的に「プロセス」や個別臨床に注目はしているが、集団的意思決定の技法がない】
- 統治はできるが、臨床的にまずい 【順応主義や権威主義。マニュアルやモデル生産に嗜癖する党派活動でしかない】