主観性と関係性

ニコニコ生放送東浩紀×宮台真司 『父として考える』」について、東浩紀氏の twitter より:

@hazuma: ぼくは単純に、宮台真司さんとぼくはやっぱり生き方やコミュニケーションの捉え方が大きく違うなあ、と素朴に思いました。これは年齢や世代の問題ではないと思います。別にどっちが正しいというわけでもない。単に違う。
@hazuma: ただ、ぼくは宮台さんを尊敬しているので、生き方について「論争」するような失礼で不毛なことはできない。というわけで、ふにふにした番組になってしまったのは、どうしようもなかったかと思います。失礼w

「話してもムダ」と言ってしまっている。 対話の可能性を諦める、だからこそ友好関係が維持できる。
無理に説得しようとすると、感情的に燃え上がるしかない。 逆にいうと、はっきりさせておかなければならない重要な論点も見えていない。


東氏自身において、破綻はすでに生じている:

@hazuma: 東浩紀「へたれでも生きていけるリベラルな国を作りたいんですよ(キリッ」 猪瀬直樹「ふーん、メシでも食いにいこっか」(10分後) 東「ところで最近若者の業務管理で困っていて、猪瀬さんの事務所とかどうなってるんですか」 猪瀬「ほらみろ、へたれじゃだめじゃんか!」 東「まったくっすね!」ww

大文字の環境設計で「へたれ容認」でも、具体的マネジメントでは、お互いの主観性と関係性をどうするのか、どうしようもなくなってしまう*1――ひきこもりでは、この点こそが剥き出しで問われる(ひきこもりの状況そのものでも、また就労や共同体でも)。
「ひきこもるような意識や関係性でいいからね」だけでは、誰かに皺寄せがいき、環境全体として破綻する(参照*2。 「ひきこもりシステム」(斎藤環)を生み出すあり方を主題化することもできない。


焦点は、主観性の構成と、関係性のアレンジを同時に考える*3ところにある。



医師や学者の「専門性」のありかたと、ひきこもりや逸脱に悩む本人のありかた。 その両方を同時に素材化するところでしか、ひきこもり系の話は扱えない。

誰か一人だけを「異常視する」のではなく、《素材化する》という扱いにおいて、自分をふくむ全員を平等に扱う。 「全員を直接肯定する」*4のではなく、検証材料として誰をも特別視しない。
最初から異常視された側(患者)と、最初から神様目線の側(医師・学者)という役割区分は、ここでは許されない(目線と関係のそういう固定こそが苦痛の元凶となっている)。 状況の素材化という過程こそが要請され*5、そのあり方を試行錯誤している。


素材化というありかたに安住することもできない。 なぜなら、いったん主観的に没頭するしかない分節過程のおのおのは、やみくもに自分への承認を求めることになるから。――そのままでは、お互いが作品同士として自己主張するだけで、意思決定の手続きがない。 ここでも、旧態依然たる権力関係が呼び出されるだけになってしまう。


至近距離の意思決定*6が、臨床技法として問われている。



*1:けっきょく、旧態依然たる上下関係を呼び出すしかない。(表面的に「フレンドリーな」関係は、実はきわめて保守的だ。目の前の関係が前提にしている規範を問い直させない。)

*2:再度関係を創ろうとした時には、古い思い込みがそのまま再演されてしまう。 「関係を創るとは、そこで生きられる意識とは、こういうものなんだ」という自覚されない前提が。 ▼ここには労働環境の問題も含まれる。 労働環境でこそ、人は人と関わらざるを得ない。

*3:ドゥルーズ/ガタリで「言表行為の集団的アレンジメント agencement collectif d'énonciation」と主題化されていたもの。

*4:リベラル系知識人にできるのはここまで。 ▼学者や医師の言説は、論じる自分のことは対象化できないメタ言説のかたちをしており、それを引きこもる本人が模倣するので、状況全体がマッチポンプ的に強化されてしまう。この現状は本当にどうしようもない。

*5:意識と関係性の臨床技法として、現象学的還元(としか呼びようのない宙吊り的カッコ入れ)が要請されている。 逆に言うとある学的態度は、それ自体が主観性と関係性の方法論となっている(そうと自覚されていなくても)。

*6:まだ整理できていないが、民主制、法、会議や経営など。 ▼「主観性の構成と、関係性のアレンジを同時に考える」という論点をすっとばして既存の法哲学経営学だけに向かってしまうと、やはり必要な問いが失われる。