《縁》という言葉で何を前提にしているか

藤井誠二氏と石井政之氏の、twitter でのやり取りをヒントにしつつ(強調は引用者)*1

藤井 社会的にひきこもっている若い人たちと個別にふだんメールでやりとりしているのだけど、彼らの「無縁社会に対する警鐘」に対してのリアクションに考えさせられた。たしかに無縁死はこわいけど、日本の(とくに非都市部での)濃厚な「縁強制社会」みたいなもののほうがこわい、と。とくに女性がそう思って

藤井 (続き) 結婚したその「家」にはいったらどんな理不尽なことでもきかねばならない、付き合わねばならない「縁」のほうが嫌だ、と。たしかに「無縁」を選択した人にはそういう理由も少なくないはず。ぼくとつながっていることが社会とつながっている一本の線と彼らは言ってくれるが、それもなあ・・・。

石井  良き縁を作るのが大人では? 極論に影響されてはいけないよ。

藤井 だいじょうぶですよ。御安心を。極から極を見渡すのがぼくらの仕事じゃないすか。



「良き縁」と言っても、それがどういう作法に基づいているかをこそ論じなければならないのに、臨床家も知識人も、「理論の正しさ」を論じることはあっても、《つながりかた》は無自覚的領域に放置し、ただ自分たちが「うまくやれている」いきさつを見せるのみ*2
成功した《つながり》は、なかなか自分の足元を分析しない。


たとえば、「私は引きこもりの当事者なんです」という属性で始められる人間関係でも、《つながりかた》は無自覚に固定されている。 ひきこもりの経験者同士だから、仲良くするのが当然なのか?
私はすでに、関係の中での当事者性*3を突きつけ合えるつながりしか求めていない*4。 自分の生きている関係性を話題にできない関係作法を押しつけられた時には、なるだけそれを解消するか、その話題を設定し直すように努力している*5。 それは私にとって、社会参加に向けた努力そのものにあたる。


《良き縁》を強調する人の多くは、自分の身勝手な思惑で利用できる相手を探しているだけだ。――ひきこもる本人も、関係性のありかたを話題にせず、自分を特権化してもらえる関係性だけを求めている場合がある。
《つながりの温存》は、閉鎖性の温存でもある。 つながりこそが分裂化*6されねばならない。 単にバラバラなのではなく、分析を準備する分裂であり、分析だけがつながりを準備する。(分析もなく、ただ《つながり》だけを要求するのは、「左翼のオルグ」「宗教勧誘」「町内会」みたいに、関係作法を問い直すことも許されず一方的に利用されるだけになる。しがらみに巻き込まれる恐怖。*7


意思決定の手続きをめぐる議論は、身近な《つながりかた》にも関係している。 【参照:「親密圏の民主主義」】



*1:明らかな typo(入力ミス)は、引用者が勝手に修正しました

*2:イデオロギーや理論事業の共有において、《つながりかた》は既決事項になっている。

*3:その場での関係責任を問いあうものであって、属性で役割を決めるコスプレ的な「当事者(≒弱者)」ではない。「ひきこもり当事者」であることは、お互いが仲良くなれる保証でも何でもない。

*4:これは、(リベラリズムPolitical Correctness の主張にあるような、)「自分だけは常にすでに100%正しい立場にある」と主張する作法ではない。 自分もよくわからないまま関係性に巻き込まれているし、曖昧な関係作法を誰かに押し付けている。 その実態を素材化してもかまわない、という準備状態こそが必要なのだ

*5:これはそのまま、ひきこもり状態への私のスタンスにあたる。 《つながり》を強調するだけでは、ひきこもりの支援業界がここまで閉鎖的になっている現実を話題にできない。

*6:三脇康生の解説する、臨床的なドゥルーズ/ガタリを参照している(『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』p.133)。 分裂を「多重人格」と捉えて推奨してしまうと、どうしようもなくなる。

*7:就職することが巨大な恐怖になりがちな理由の一つは、これだ。